<探検:解釈日向戦国史 履修 2008.09.01>
<戦国の戦い> 戦国時代には、全国各地において群雄割拠し苛烈なる生き残りの決戦、戦国の戦いが展開された。そして、その地獄絵の戦場と壮絶な攻防の中から、時代を画する多くの武将や輝ける大名が出現して後世の歴史を飾り、また華やかな戦国物語や英雄伝説を生み出してきた。 中でも、武田信玄・上杉謙信による「川中島の合戦」、織田信長が今川義元を奇襲した「桶狭間の戦い」、徳川家康の「関ヶ原の合戦」などは特に広く知られている。 <日向の龍 義祐父子・薩摩の虎 貴久父子> ところが、日向・薩摩・大隅合わせて「日薩隅三洲」といわれる南九州においても、日本の戦国史に留まらず日本の歴史に大きな影響を与えた「異彩を放つ戦国の戦い」があったことは、あまり知られていない。それは、日向の龍と畏敬されて勢力の伸張を誇った伊東義祐、その子義益・祐兵の父子と、薩摩に「西海の虎」と謳われた名将・島津貴久、その子義久・義弘・歳久・家久の父子とが激しく対峙して繰り広げた「飫肥城攻防の合戦」である。 島津貴久の父忠良は、「島津氏中興の祖」を言われ「日新斎」とも称した人物で、特に、島津氏における文武両道について、思想・宗教(修験道を含む)の面から子や孫、ひいては家中の啓発・指導に大きな実績を残し人材育成に努めたという。 日新斎の「人心経営思想」である「いろは歌」は有名である。この日新斎の卓越した薫陶の中から、子の貴久、孫の義久・義弘・歳久・家久という優れた武将・人材が育っていった。 他方、伊東氏は、平安時代から「藤原氏の武家の統領」の家門として日本史上に知られ、鎌倉時代に、源頼朝の側近筆頭で重臣であった工藤祐経とその嫡子伊東祐時が日向国地頭職に任ぜられ、引続く室町時代には、幕府直臣・小番衆としてとして、将軍足利義満から伊東祐尭(義祐祖父)が、内紛が激しく不安定な薩摩の島津氏に代わって日向・薩摩・大隅の「三国総帥」として守護職に任ぜられた。その後、この地における伊東・島津両陣営の主導権争い、国取り合戦はいよいよ激化した。 そして、遂に文明16年(1484)に至り当主伊東祐国(義祐の祖父)が、弟の祐邑と共に日向の35の諸城の外城衆を引き連れて飫肥地方へ出兵。島津豊州家忠広(忠親父。始祖は島津宗家8代当主島津久豊の三男季久)が支配していた飫肥において伊東・島津両軍が合戦を行い、その年の12月に、軍兵300で来援していた平和泉領主の島津豊久は戦死した。 <飫肥城100年合戦とその影響> 先代からの因縁を引継いで、伊東義祐によって再び本格的に始められた飫肥城の攻防戦は、天文10年(1541)10月10日に初戦が始まり、三度にわたる合戦を経て、やがて、永禄11年(1568)1月9日、伊東軍は20000の軍兵を動員し飫肥地方を攻め、4度目の激しい攻防戦が展開された。 島津当主貴久と伊東当主義祐両雄の最終戦となったこの飫肥城の合戦は、遂に伊東義祐が圧倒的な勝利を収め終了した。ところが、その数年後、義祐は「木崎原の合戦」で大敗、その5年後の「伊東崩れ」によって、島津貴久の後継・嫡男義久の大軍による日向侵攻を受けて「豊後落ち」に追われ日向国を失った。 しかし、「豊後落ち」、大友宗麟の「高城の合戦」を経て四国の伊予国に退避して数年後、天正10年(1582)1月、時節到来の天下の情勢を測っていた義祐と祐兵父子は、密偵の山伏三峯の情報に基づいて中央政権で抜群の頭角を現した「羽柴秀吉」に面会するために播磨に向かった。そこで、本能寺で織田信長を暗殺した明智光秀を瞬く間に討伐してその後継となり、まもなく、京・大阪を拠点として天下人となる「羽柴秀吉」に遭遇し、島津氏から占領された日向国の奪還について強く請願した。 そして、その義祐・祐兵父子と秀吉との運命的な出会いから6年後の天正16年(1588)に至って、伊東祐兵は、秀吉から、島津征伐の「九州征伐戦」陣立ての好機において、その遠征軍25万の水先案内人を命ぜられて参軍し故郷日向に帰還した。そして、「秀吉の天下統一」につながる歴史的な軍功を以って太閤秀吉から飫肥を含む相当の日向旧領が恩給され、「飫肥藩」が誕生し、夢に見た奇跡的なお家再興を実現した。 「飫肥城攻防戦」は、伊東氏と島津氏とが、この間約100年の長期にわたって相譲れない執拗な攻防を繰り返した、甚だ特異な戦国の戦い・国盗り合戦であった。また、この合戦は、結果的に伊東氏と島津氏との栄枯盛衰を左右しただけでなく、その衝撃は 、わが国の戦国社会に大きなゆらぎとなって波紋を広げ、歴史的に大きな影響を与えた。すなわち、その一連の歴史は、
このように、約100年にわたる「飫肥城攻防合戦」における、<日向の龍>伊東義祐・祐兵と<薩摩の猛虎>島津貴久・義久 双方の父子による合戦とその後の波紋は、実に日本の歴史の上に異彩を放つ事件であった。そして、この飫肥城攻防の合戦の中から、日向の強豪伊東氏と薩摩の強豪・島津氏の誕生があり、その成長と繁栄・衰退と没落、更にはお家再興という西国のドラマが展開されたのであった。 <島津・伊東両氏の歴史的相克> そして、この飫肥城100年合戦の攻防の背後には、単に飫肥地方や飫肥城の争奪戦というだけではない、双方に横たわる次のような相克---「プライド」と「こだわり」が存在したことが注目される。
<参考文献> ①日向記(宮崎県史叢書・宮崎県史刊行会) ②島津義弘のすべて(三木靖・新人物往来社) ③鹿児島県の歴史(原口虎雄・山川出版社) ④中世日向国関係年表(FUJIMAKI sachio 聚史苑) ⑤ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』島津氏 ⑥伊東氏大系図(東京大学史料編纂所蔵) ⑦古代豪族系図集覧(東京堂出版)近藤敏喬 ⑧伊東氏歴史の主要文献(伊東家の歴史館) ⑨ブログ「膏膏記」(2008.05.04) 桐野作人
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