<日向の伊東義祐><薩摩の島津貴久>父子の戦い

「戦国異彩」飫肥100年合戦


---強豪・島津氏と一生戦い続けた男の軌跡---

伊東義祐の何故?>




飫肥100年合戦 目次

(1) 島津氏・伊東氏 「戦国・南九州の覇権」を争う
(2) <日向の龍・薩摩の虎>義祐・貴久天下に轟く
(3) 「飫肥城攻防戦 28年」 義祐大勝悲願達成
(4) <木崎原合戦」>父の仇討ち 義弘の非常計略
(5) <悪魔の還暦期>運命の暗転「「伊東崩れ」
(6) <豊後落ち>義祐父子の死中を行く逃走
(7) <高城の合戦>大友宗麟の野望潰えて
(8) <不屈の戦略家>天下の時節到来を測る
(9) <秀吉に接近>日向と祐兵の一大事を請願
(10) 「漂白の歌人」中国道・瀬戸内 安堵の旅に死す
(11) 秀吉遠征軍 25万人」祐兵案内 島津氏大敗
(12) <天時天兵の戦略>因縁成就・飫肥藩の奇跡
(13) <名将の天恵>戦国の逃走事件とお家再興
                       



(1)島津氏・伊東氏>「戦国・南九州の覇権」を争う

 伊東氏は、平安時代、先祖工藤祐経が平重盛に属して、平安京・内裏の天皇の御所「清涼殿」にあった「武者所」に出仕し、皇室をを警護する歴代の「禁裏・小番」役であった。 この皇室や朝廷を警護する役割の歴史的家格は、その後の幕府においても踏襲され、鎌倉幕府においては、源頼朝の側近で重臣であり、その後の北条執権が支えた鎌倉幕府においても同様であった。これに続く南北朝に至っては、足利尊氏に随従して各地に転戦して室町幕府成立に働いた「将軍直臣・幕府御家人」であった。

 このような歴史を背負った伊東氏は、日向で領国拡大のため繰返された合戦による成果と、在国の「小番家(こばん)」(奉公衆)としての立場から、周辺諸国に対する政治工作および同盟工作を行い、日向・薩摩・大隅の三洲において守護・島津氏と激しく対峙するようになり抗争を繰返しながら支配領域を拡大してきた。
  応永7年(1400)将軍足利義満は、日向国を室町幕府の経費・財政を賄う「幕府料国」の一つに指定した。これによって伊東氏は、旧来の守護大名の力から独立した「守護使不入権」を有する室町幕府の奉公衆として、朝廷・幕府の守護に当たると共に幕府直轄領を含む日向国の「御料地の管理者」でもあった。また飫肥の油津港が室町幕府が進めた密貿易管理の「勘合貿易」(日明貿易)の中継基地となっていたように飫肥一帯は、この室町幕府の「御料所」に属していた。従って、伊東氏が飫肥においておよそ100年に近い長期にわたって合戦を繰返した背景・大きな原因をここに観ることができる。すなわち、守護島津氏の立場とは異なり、幕府と朝廷を内側から守護する「小番家」の立場であり、加えて幕府への納税義務を伴った直轄領である「御料所の管理権者」の立場が被さっていたのである。
 そして、寛正2年(1461)には、伊東祐尭が将軍足利義政から内紛がはげしく、政情不安定な島津氏に代わり、日向・薩摩・大隅の守護の役目を代行をするようにとの御教書が発せられた。

 このように、藤原南家・伊東氏の歴史を見ていく場合は、皇室や幕府を軍事・財政両面で支援したり守護する任務を持つ「近習・小番」という家格と立場が重要な視点と言えよう。

 これに対し、島津氏は、応永11年(1404)島津元久が日向・大隅・薩摩の守護に任ぜらた。しかし、島津氏は、伊東氏の立場とは異なり、室町幕府の成立時から新政府との間に相当距離感があり親密な関係には無かった。それは、島津氏が旧鎌倉幕府(北条執権)体制で得た大きな権益を引続き追求する立場であったこと、加えて元来島津荘は、京の摂関家である近衛家の所有する荘園(島津院)であって、その管理・権益によって近衛家を支援する関係にあったことによると思われる。
 このため、島津氏は困難な時代の節々において近衛家の強い支援が得られる立場にあった。このように、武家の藤原氏の本流である藤原南家・伊東氏と、他方、藤原北家の摂関家である近衛家に仕える島津氏とは、共に幕府・朝廷を挟んで長い歴史的な因縁があった。


(2)<日向の龍・薩摩の虎>義祐・貴久天下に轟く--最高のライバル

 伊東氏は、第10代伊東祐尭、第12代尹祐の時代にその勢力の伸張著しく、これに続く第13代の戦国大名義祐は、朝廷と室町幕府から政情不安定な南九州において頼れる護国の支援者として一貫して強く支持されてきた。そして、室町幕府と直臣伊東氏のこの相互依存関係を反映して、幕府から義祐に対して「大膳大夫」「幕府一代相伴衆」、それに「従四位」に留まらず地方大名としては破格の「従三位」などの官位や叙勲が行われ、日向国内外に昇り竜の勢いであったという。そして、遂に「飫肥城の攻防戦」の勝利によって鎌倉時代以来の夢でもあった日向・薩摩・大隅の三国にわたり一旦南九州の覇権を確立した。
 しかし、日向伊東氏のこの上昇と繁栄の世紀は、その最大の拠り所であった中央政府・室町幕府が衰退する中で、従三位義祐とその周辺に徐々に権勢に安住した油断や驕慢をも増長することとなり、戦国末期の天下大乱の情勢変化と共に次代に迫る「危険な衰退の病巣」を肥大化させて行った


 一方、島津貴久は、永正11年(1514年)5月、薩摩島津氏の分家、伊作家および相州家当主島津忠良の長男として生まれた。この時代、鹿児島の島津氏本宗家は、第12代当主・忠治、第13代当主・忠隆が早世。第14代当主・勝久は若年のため宗家は弱体で、領国の一門・分家・国人衆の離反・独立の動きが活発になり島津一族は遠心力が働き危機的であった。このため、相州家の島津忠良は、初め武力によって後には戦略的な政治工作によって、大永6年(1526)貴久を勝久の養子とし、島津本宗家の家督を継承させた。これで、大永7年(1527)勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は鹿児島の本城に入って島津氏の政権交代が実現したのであった。


(3)<飫肥城攻防戦 28年> 義祐の圧勝・悲願達成-- 最大版図の出現

 戦国時代、東国における最も有名な戦国の戦いは、天文22年(1553)から永禄7年(1564)の12年間に、互いに自国の総力を賭け5度に渡って繰り広げた上杉謙信と武田信玄との「川中島の合戦」である。しかし、両者はそれでもなお決着を見ることなくあの世へ旅立ったことは広く知られている。ところが、時代の同時性とは不思議なもので、この地とはおよそ直接関わりの無い遠隔地においても、同じような戦いが発生していたのである。

 実は、伊東氏と島津氏との間において、「南九州の川中島の合戦」とでもいえるような、激しい戦国の戦いが繰返されたことはあまり知られていない。それは、奇しくも義祐は永正10年(1513)生まれ、貴久が永正11年(1514)5月誕生と互いに年齢が同じで、隣国同士に生まれた宿命のライバルとして成長し、名将としてまた歴戦の勇将として台頭した日向と薩摩の両雄---伊東義祐と島津貴久である。その両雄父子が、人生60年の総てを賭けて展開したまさに<南九州の戦国史を飾る戦い>、それが「飫肥城の戦い」「飫肥城の攻防戦」であった。

 
飫肥城を巡る島津氏と伊東氏の合戦の歴史は古く、本格的には文明16年(1484)6月、伊東祐国8000、祐邑8000合わせて16000の軍兵が飫肥へ進軍して島津軍との間で壮絶な戦闘を展開した。しかし翌文明17年6月に至り、当主伊東祐国が、飫肥城を攻撃中島津軍の重囲に遇い戦死したため、伊東軍はやむなく全面撤退に追込まれるという鮮烈な歴史があった。

 このような先代からの因縁を引継いで、伊東義祐によって再び始められた飫肥城の攻防戦は、天文10年(1541)10月10日に初戦が始まり、
2度目は天文24年7月。飫肥の島津豊州家は、代々日向伊東氏の侵攻を受け、忠親も度々伊東氏の攻勢をしのいできたが、次第に伊東氏の圧力は増大していった。このため、永禄3(1560年)島津宗家15代当主である島津貴久は、伊東氏対策のため「猛将の誉れ高い二男義弘」を、飫肥の「島津豊州家の養子」として送りだし「飫肥城を守備する大将」に任じたのであった。島津軍大将・義弘は、次いで3度目となった永禄4年から永禄7年の合戦において必勝を期したがまたも勝利を得ることは出来ず、決着はみられなかった。
 このため、父貴久の強い期待に何としても応えたい義弘は、
永禄10年(1567)焦る気持ちに急かされるように、伊東氏を討つべく大挙三ッ山城に攻め入るが、城主米良筑後守はこれを固く防戦。しかも、大将義弘は戦闘によって重傷に見舞われ敗北し、無念の退却に追い込まれたのであった。

 やがて、永禄11年(1568)1月9日伊東軍は20000の軍兵を動員し飫肥地方を攻め、4度目の激しい攻防戦が展開された。これに対し、同年2月21日「大将」島津義弘は、13000の援軍を得て激しく応戦するが、北郷忠俊など有力武将を含む多数の戦死者を出したため戦局は一気に伊東軍優勢に展開し大敗。貴久と義祐両雄の生涯の最終戦となったこの合戦は、遂に伊東義祐が圧倒的な勝利を収めた。このように、島津軍を率いる大将義弘は度重なる伊東義祐との合戦において、なかなか勝利が得られず大敗を奏してしまった。

 この結果、永禄11年5月当主島津貴久は、いよいよ飫肥地方の放棄を決定し、苦渋に満ちた敗北を受諾した。伊東氏は霧島山麓での会談によって飫肥一帯と飫肥城を勝取り、先祖代々からの悲願を達成したのであった。島津氏においてはこの敗北の痛手は甚だ大きく、そのショックもあってか、それから暫くたって当主島津貴久は悲憤の中で死去したのである。こうして、両者による28年間にも及んだ「飫肥城攻防の合戦」は幕を閉じたが、この勝利によって日向国内に四十八城を構えた義祐は、島津氏を政治的に圧倒。日向を含む南九州の最大勢力となって、戦国大名伊東氏の最盛期を築き上げた。


 
<足利幕府の天下の傘下に並ぶ伊東義祐と島津貴久 参考史料:将軍外交


(4)<木崎原合戦>義祐油断--義弘 父貴久の仇討ち「非常計略で大勝」

 ところが、その後の義祐は、例えれば、唯ひたすら息を切らしながら頂上に登り詰めた年配の登山者が、山上で身を投げ出して休息するかのように、合戦や政治向きのことには、すっかり緊張と熱意を失ってしまっていたという。
 おそらく、伊東家歴代の先祖からの悲願であった飫肥城攻防戦において島津氏に大勝し、飫肥の領有に満願の安堵を得たからであろう。あるいは、最も手ごわい歴戦の敵将として、内心深く敬服していたと思われる、<人生最大のライバル・島津貴久>を自分の眼前から失ってしまって強い緊張感の糸がポツリと切れてしまったからであろうか。
 加えて、義祐とその側近・寵臣たちによる驕慢な政治と放逸な振舞いが目に余り、甚だ周囲のひんしゅくを買うようになっていた。義祐は、また専ら仏道三昧に明け暮れていたので、家中では「天下の情勢と敵陣の様子は全くそのような暢気な時節にあらず」と不満が渦巻き、家中・家臣団はおおいに揺らいでいたという。

 そして、満月は欠けるの譬えの通り、時のうねりは非情に流れ、まさに人生は無常であった。
永禄3年9月伊東家の家督を継ぎ、文武に優れその人望においても家中はもとより家臣団の期待を一身に集めていた当主(嫡男)伊東義益(24才)が、永禄12年(1569)7月、岩崎稲荷に参篭中に急死する、という不審な異常事態が発生した。ここに義益の辞世の句が残されている。

    「閑かなる 時世に花も おくれじと 先づ咲きそむる 山桜かな」(伊東義益)

 島津氏においては、<切り札>の勇将二男義弘を投入し必勝を期して戦った「飫肥城攻防戦」であったが、結局、義祐に勝つことは出来ずしかも大敗を奏した。そして、遂に飫肥と飫肥城を失ったのである。大将・義弘(当時37才)は、尊敬する父島津貴久の期待に応えられず、慙愧の念と追慕の念が日毎に亢進して止まなかったであろう。
 このため、父貴久の生涯の宿敵であり自らの眼前の敵将となった日向の竜王・義祐に対する「弔い合戦」の存念は、尋常なものではなかったと思われ、この敗北を期にその無念を晴らすべく今までに無い異常な作戦に転じていった。
 
 天文15年(1546)義祐は、「従三位」に昇任され、その二年後天文15年(1546)剃髪して「入道義祐」と号したが、先に死去した嫡男義益の嫡子・義賢の後見人として、義祐が、急遽第一線に再登板した晩年にいよいよその運命は暗転した。それは、栄光の戦国大名としてすでに第一線・現場を離れて定年退職し、専ら、墨衣のOB・入道として「仏道三昧」であったという義祐の晩年に発生した、言わば「第二の人生の出来事」であった。

 時恰も、京において織田信長が登場し浅井、朝倉を倒し、また室町幕府の将軍足利義昭を追放するという大異変があり、中央政局から来る戦国末期のこの騒然とした空気に急き立てられて、連勝の勢いに乗る伊東義祐は、元亀2年(1571)10月、最強軍団・伊東軍と肝属・伊地知・根占、下大隅の諸氏からなる連合軍を組織して、兵船300隻の大軍で桜島にある野尻村を攻撃。遂に同年11月20日には、伊東軍と大隅の肝付、根占等各氏の連合軍100隻の軍船で、島津氏の本城を目指して鹿児島を攻めた。しかし、この大攻撃は、今一歩力及ばず薩摩侵攻は失敗に終わった。このように、伊東氏と大隅の諸氏の連合軍は、薩摩へ一段と圧迫を強めてきたので、島津氏、わけても義弘は、もはや如何なる戦略・手段を用いても絶対に負けられない、危機的な事態に追込まれていたのである。

 一方、義弘のこの新たな動きを察知した伊東義祐(当時60才)は、嫡男の当主義益急死の傷心未だ冷め止まぬ元亀3年(1572)5月、飯野・加久藤地方へ伊東軍を進軍させ、その貴久二男大将義弘との新旧世代間の「木崎原合戦」に遭遇した。しかし、この戦いは伊東・島津両軍にとって、共に2万~3万人という大軍を動員した「飫肥城攻防戦」など従来の本格的合戦と違って、もともと局地的な小競り合いの戦闘に過ぎなかった。ところがその現実は、双方にとって思わぬ展開となったのである。

 義弘は、前もって仕掛けた巧妙なゲリラ戦とこれと組み合わせた奇襲作戦を展開し、伊東軍は不覚にもその戦略の網にすっかり嵌ってしまった。義祐は、伊東軍3000が島津軍300に大敗するという、伊東軍のそれまでの戦史には無い前代未聞の敗北をを奏してしまった。

 義弘は、鉄砲の技術と軍事情報戦略に長じた新しい時代の知将であった。すでにその12年前永禄3年(1560)織田信長は、尾張の桶狭間(愛知県豊明市)のおいて、僅か2000の手勢で駿河・遠江・三河の太守今川義元率いる2万5000という大軍を急襲し、義元の首級を挙げて奇跡的な勝利をし日本の戦国史に革命をもたらしていた。島津義弘は、当然、この「桶狭間の奇襲作戦」の戦法を事前に承知し、十分に学習していたとが推察される。

 ところが、それまで義弘の島津軍との数回の合戦で一方的に勝利していた義祐は、故人の父貴久に比較して息子の義弘の戦い方をほとんど問題視せず、恐怖感も存在しなかった。そのため、義祐の内心には、島津軍に対する驕りと油断が存在し、伊東軍の陣立てなど戦略・戦術にも甘さと齟齬が発生した。しかも、今や諫言する者を遠ざけ、特定の側近の偏った意見に傾く驕慢な権力者となった義祐とその重臣たちの間には、大きな心の壁が出来てしまっていたという。このような家中の空気の中で、義祐が選抜した伊東軍の若い大将連は、義弘の島津軍を旧来の通常の戦略・戦い方を前提にして侮り、合戦当日、午前中の戦闘で伊東軍が大勝したことで慢心してしまうのである。初夏を思わせる蒸暑い南国5月の気候のもと、昼時、伊東軍の主力部隊は、飯野川で武具を外して水浴したり、休息していたところを島津軍に発見され、その場を義弘率いる一隊が急襲したのである。

 そして勇猛で聞こえた伊東軍は、約10倍の兵員を擁しながら、双方の戦死者数では、伊東軍約500名、島津軍約160名とされ、従来の刀や槍を使っての合戦では理解できない異常な数字であり、敗戦は一方的であったという。この結果は、島津義弘が飫肥城攻防28年の合戦を通じて伊東軍になかなか勝利できず敗戦続きであったことから、信じられない甚だ意外な結末であった。そこには、どのような戦況や武運があったのであろうか。
 おそらく、大将義弘は、「もはや正規軍による伝統的な戦い方では、義祐の伊東軍は決して倒せない」と悟ったのであろう。そこで、希代の軍略家であった義祐の思考回路を回避し、突破する奇策・戦略の採用を思い至ったと思われる。
 それは、義弘が考案した「釣り野伏せ」などのゲリラ戦を展開し、伊東軍を撹乱した後その油断を突き、「満を持して得意の鉄砲を駆使して集中射撃」を行ったもので、従来の日向・薩摩の戦場では見られない「非情の作戦」の採用の結果であったろう、とも言われている。

 しかし、その義弘の作戦の真相は、当時島津氏占領下の日向では種々の事情から徹底して秘密にされたと考えられ、義弘が建立したと言われる木崎原古戦場の両軍戦死者を懇ろに供養する慰霊碑や伊東塚(小林市)のほか、伊東軍大将の一人で槍の名手伊東新次郎と義弘が一騎打ちを行ったという武勇伝とその時義弘の窮地を救ったという「愛馬の膝突き栗毛伝説」などの影に隠れて、その詳細は明らかにされていない。
 ただ、この合戦は、島津氏と伊東氏との数百年の戦史に見られない、双方にとって悲劇的な戦いであったことだけは確かである。また、この戦いに先立つ「飫肥城攻防戦」が、「日向の川中島合戦」と言われるのに対し、この「木崎原合戦」は、島津氏側によって後世「日向の桶狭間合戦」とも称されたのは、このような戦いの特質を表したものであろう。


(5)<悪魔の還暦期>運命の暗転--義祐の驕慢・「伊東崩れ」発生

 その後、伊東氏は、木崎原合戦(日向では「飯野川合戦」「加久藤合戦とも言う)において、次代を担う多くの有為な武将を失ったためその衝撃が止まず、やがてその5年後の天正5年島津家を継いだ若い当主義久率いる大軍が日向に侵攻したことによって、伊東氏の体制崩壊「伊東崩れ」が発生し敗北。義祐主従は豊後に亡命し日向国を失った。島津氏は、義祐と「飫肥城の合戦」を戦って死去した父島津貴久の<弔い合戦>に勝利しただけでなく、数百年に渡る最強の宿敵・日向伊東氏の打倒に成功して、遂に日向国をその掌中にした。

 そして、そこには日本の歴史に見る「勝者」と「敗者」があった。「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われるように、歴史とは、しばしば勝者の都合によって取捨選択され、敗者不在のもとで編纂される敗者断罪の記録でもある。同じ舞台で戦っても、常に「勝者」はほとんど過分に賞賛され、「敗者」は勝者側と身内の双方から永く激しく叩かれる。それは、源平の合戦、関が原合戦、明治維新、また、第二次世界大戦の<敗戦国日本>の如くである。
 まして、日本全土が全国統一に向けて厳しい合戦に明け暮れ、戦火に燃え上がり、ただ勝つことだけが正義であった戦国時代。隣国の強豪島津氏の侵攻に激しく対峙して覇を競い、日向国一円を平定したのみならず大隅・薩摩にまでその勢力を広げた戦国武将義祐。

 この間の伊東氏と島津氏の相互関係にかかる歴史と解釈は、専ら、宿怨激しい島津氏による日向占領政策の厳しい環境下で、勝者の歴史家・作者たちの立場を色濃く反映して編纂された専ら島津氏から見た「敗者伊東氏の歴史」が描かれたのであろう。

 義祐は、勇猛果敢で聞こえたその戦国武将の顔の裏側で、仏教への造詣深く、あるときは政務を忘れるほど傾倒し京文化に学んで多くの寺院等を創建する一方、その心情を豊かに吐露した詩歌をも多く残している。それは、この時代全国各地の戦国武将や大名に見られ、「憧れの京文化の地方伝播」という、言わば中央から地方への流行現象でもあった。絶間ない戦いを生業とする戦国大名の宿命に生きた、義祐の厳しく孤独な人生と際立つ戦績は、日向記等の日向戦国史に特筆されている。
 また、注目すべきは、伊東義祐と島津貴久は、言わば戦国大名として華に満ちた同期生で、且つ宿命的な最高のライバルであった。
 そして、おそらくは薩摩と日向の寄る辺なき戦国の最高権力者の立場において、共に最も似たような心境と世界の中で懸命に生きていたのかもしれない。

 伊東氏の没落は、「伊東崩れ」などに書き残されたような義祐の晩年の「政治の乱れ」が原因とされる。だが、真実は「時節因縁」の理によって観る方がよく見える場合が多い。
 そこには、後継者の嫡男義益が急死する不運、そして伊東宗家が、南北朝期に足利尊氏に随従して鎌倉から日向に下って来て以来、最大の拠り所であった京の「室町幕府の崩壊」と「織田信長の登場」という天下大乱が重なったことも見逃せない。一方、義祐個人の心身は、時恰も還暦60才前後の人生の低調期、「還暦」「厄年」「大殺界」といった時節であった。伝えられるところでは、まさに60才から63才当時の義祐は、それ以前の現役の頃の覇気が失われ別人のようであったという。この時期の恐さは、同じ生れ年の敵将島津貴久が、先年この時期を迎えて死去してしまったことで比較できるように、人生の大きな曲り角でその心身は、甚だ脆く頼りない季節であったのである。

 このように、義祐は年齢的にこの対応力弱まった人生の衰退期に当たって、後継者問題から現役復帰を余儀なくされ、不幸にも深刻な時代変化の激流に立ち向い、著しい心身の不安や焦燥感に襲われていたと推察される。
 また、義祐にはそれまで武力に偏った拡張主義や権勢への強い執着も見られ、政治改革と後継者育成等の遅れにつながり、島津氏との勝敗を分けたとも考えられる。

 他方、このような視点に立てば、逆に島津貴久は、飫肥城の戦いに敗北し先に死去したとは言え、その生涯を通じて日新斉の「いろは歌」に代表される家訓を実践し、「一族・家臣団の人心掌握」に心がけて後継者の文武両面わたる人材育成に励み、歴史に特筆される成功を収めた。すなわち、幸運にも、義久、義弘、歳久、家久という優れた後継者を得たことが、その後の戦国大名島津氏の成功と繁栄をもたらしたとも言えよう。


(6) <豊後落ち>義祐父子一行 奥日向山岳コース死中を這う逃走

 天正4年(1576)8月19日、当主島津義久は、家久・忠長らと共に薩摩・大隅の軍兵を動員して日向高城の攻撃を開始。8月23日高城は陥落し、高原、須木など8城も放棄された。天正5年12月7日に至り、義祐身内の野尻城主福永丹波守が島津方に寝返り、野尻城に島津軍を招き入れたため局面は激変した。
 相次いで日向山東各地でも反乱が続発し都於郡や佐土原の身辺にも危機迫る情報を受けて覚悟を決めた伊東義祐は、やむなく遂に天正5年(1577)12月9日本城・都於郡城を捨てて日向を出奔し、米良山中に入り、同盟国で縁戚の豊後大友氏を頼り亡命して行った。

 ところが、その豊後退避の逃避行の実態は、筆舌に尽くし難い困難を伴った行程であったという。日向随一の武将として地理を知りつくした伊東義祐が、島津の敵軍に発見される危険を避けるため考え抜いて選んだコースは、九州の屋根と言われる九州山脈に近い、奥日向の山あり谷ありの険しい山岳コースであった。それは、まるで険しい山腹を這うようにして豊後へ向かう至難のけもの道でもあったという。
 一行は、島津軍の厳しい追手を避けるため、途中で幾手にもコースを分けたり、馬や荷物を落しただけでなく、老若男女の群れでもあったから、ケガ、病気、衰弱、気力喪失などのため随従不可能になった多くの落伍者がでた。その者たちは、やむなく各地に留めながら進んだという。天正5年暮れ12月、奥日向の厳寒の中出発時には入道義祐(65歳)以下、女・子供を含めた一行は総員100名位であったが、日向~豊後間約200キロを17日間もかかった。
 そして、その義祐一行が、大友宗麟の使者が出迎えのため待つ高千穂町河内(大分県境)に到着した時には、その人数は約半数の50名以下に減っていたという。



(7)<高城の合戦 > 大友宗麟の野望潰えて 
島津連合軍大勝

 しかも、こうしてようやく行き着いた豊後であったが、そこはただ安息の地などではなく、日向伊東氏の復活のため、大友宗麟が義祐と謀って島津氏に逆襲を挑む「大友・伊東連合軍による高城の合戦」が待っていたのであった。

 豊後に到着した義祐は、大友宗麟に豊後退避のご恩を謝し、島津義久への報復と日向国奪還に大いに支援を要請した。宗麟は日向国についての自分の思惑と野望に基づいて義祐に協力を約した。宗麟は日向国を手に入れてキリシタンの楽土を建設する夢を描いていたという。
 伊東義祐が豊後へ逃亡し、南日向は島津氏の勢力下におかれた。さらに北日向土持氏らも島津配下に降り日向は完全に島津氏の支配下となった。守護・島津氏によるこの事態を重くみた守護・大友宗麟は、天正6年(1578)4月、日向へ攻め入り、土持氏を服従させ耳川以北の北日向をも占領した。
 そして、大友勢4万3000を率いた田原紹忍は、陸路を南下し、10月先陣の佐伯宗天・田北鎮周が、島津軍・山田有信が守る高城を攻撃し、「高城の合戦」が開始された。
 しかし、救援に駆け付けた島津家久率いる3000の兵を、誤って高城に入れてしまうという失態を犯し、大友軍は高城を落とすことはできず、戦況は益々悪化した。
11月初島津義久は,4000の兵を率いて、高城救援のために日向佐土原に着陣。島津義弘も飯野を出発し、財部城に兵を入れた。
11月12日、島津と大友の両軍が激突。軍兵の数に勝る大友勢に対して、島津軍は、正面(島津義弘)、側面(島津義久)、高城内(島津家久)が、三面攻撃を行なったので、大友軍は遂に支え切ることができず壊滅的な打撃を受けた。
 敗走し溺死する者は数知れず、大友軍の戦死者は4000余りとなり島津軍に大敗した。
 この敗戦の結果は、豊後大友家に亡命して居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、その滞在の空気が一変したことは当然のなりゆきであった。また、宗麟の息子が美貌の祐兵夫人を奪おうとしているとの噂がたっため容易ならざる事態に至った。


(8)<不屈の戦略家> 豊後から四国へ退避 天下の時節到来を測る

 そこで、翌年の天正7年(1579)4月義祐・祐兵親子は、身辺の危機も迫ってきたので、人数を二十余人に絞って、四国伊予(松山)の名族で縁戚にあたる河野氏を頼って四国へ渡海した。また伊予河野氏は、義祐一行をたいへん親切に迎えよく待遇したが、何分多勢で長期にわたった生活は厳しいものにならざるを得なかったという。

 この四国伊予の逗留によって、先ずは日向を離れて以来これまでの地獄のような辛苦の旅でボロボロになった心身を癒すことができた。


(9)<秀吉との遭遇> 日向国奪還と祐兵のお家再興の一大事を請願

 その後、激動する天下の情勢を窺いつつ「天下の時節到来の機」を待つこと3年後、天正10年(1582)1月に至り、義祐が使っていた「山伏の三峯」から、京・大阪方面の天下の動静について重大な情報がもたらされた。そこで、義祐と一行はその三峯の案内に従って、四国道後を離れて播州姫路に向かった。
 この義祐父子と後の太閤・羽柴秀吉との歴史的な遭遇から謁見に至るドラマのことは、日向記(卜翁本)[10 羽柴秀吉公御出頭事」に鮮やかな記録が残されている。

 義祐父子一行が姫路に到着すると、密偵の山伏三峯によってすでに秀吉の家臣になって大いに活躍していた伊東一族の「伊東掃部助」に引合わされた。義祐からこれまでの顛末と日向伊東家の再興への並々ならぬ決心を直接聞いた掃部助は、「羽柴筑前守・秀吉殿は、天正5年織田信長から姫路の城を拝領し5年をかけた普請によって三重の近世城郭を備えた見事な姫路城に大改修したことや、その後の抜群の隆盛ぶりと秀吉の評判」などを義祐に伝え、その上で義祐に秀吉の家臣になることを、是非にと強く勧めたのである。。

 これに対し、義祐は掃部助との出会いや親切なその勧めを喜び、秀吉による新しい天下の出現は「伊東家再興のためには絶好の機会になろう」と祐兵にそれを許し、仕官の心構えを説いて「大いに頑張れよ」と何度も励ましたと思われる。
 ただし、自分については「いま流浪の身とは言え、永く日向の太守であった者で代々にわたり藤原氏の名家であり、しかも今や老齢70才。まして朝廷から従三位の栄誉を賜った者である。望んで羽柴秀吉などの配下になれるものではない」と、義祐はその謁見の要請をきっぱり断ったという。

 しかし、この部分は祐兵と側近たちの創作であろうと思われる。何故なら、義祐は、日向国と伊東家の再興という人生最後の命懸けの問題について、秀吉に面会して要請するために、後継者を託した二男祐兵を伴って艱難辛苦を押して四国から京・大阪に上洛していたので、謁見を辞退したというのは先ずは考えられないであろう。
 おそらく、日向記が義祐と秀吉の面会について直接とせず掃部助を介した間接的な形にしたのは、公家職・従三位の義祐の高い地位や誇りと、謁見当時まだ信長の家臣の地位で将軍でも太閤でもなかった羽柴秀吉との双方の立場を考慮して、このような記録が残されたのであろうと思われる。そしてその最大の理由は、秀吉の家臣となって必死の活躍をしお家再興を成し遂げ飫肥藩主となった伊東祐兵と、秀吉に義祐・祐兵父子を仲介し立役者となった祐兵家臣・伊東掃部助二人の大きなな手柄と貢献を強調する必要があったためと推察される。

 いずれにしても、嫡男祐兵を仕官させたうえで「一刻も早く島津氏を討伐し必ず日向国の奪還を図りたい」という義祐の強い期待と請願は、義祐父子と仲介者の伊東掃部助を通じて秀吉に十分に伝えられたと思われる。従って、その後祐兵が秀吉に近侍して目覚しい活躍をしたことによって、天正15年秀吉の九州征伐出陣に当たっては、祐兵や伊東掃部助を通じて託された義祐の大願が、大友宗麟など他の諸大名の請願と併せて豊臣秀吉の念頭に大きく描かれていたことは容易に推察されのである。


(10)<漂白の歌人> 瀬戸内・中国道 安堵の旅に死す

 秀吉に遭遇し日向の請願を果たした義祐についてその後の消息を伝える記録が、「日向記」(巻第10・卜翁本 宮崎県史叢書)に「三位入道殿防州流浪事」として残されている。
義祐は果てしない苦難にみちた退避生活の末に、天下布武の織田信長が突如本能寺において明智光秀に暗殺された後、その光秀を瞬く間に討伐して一躍信長の後継者として彗星のごとく登場し、「天下人・太閤」となる羽柴秀吉に遭遇するという歴史的な時節到来、「時運の奇跡」を迎えた。この秀吉との遭遇を契機に、日向伊東家再興の請願とあわせ伊東祐兵の仕官を実現するなどようやく平安と強運の時代を迎え、永い人生の中でまるで経験したことの無いような安堵感に浸っていたのであった。暫くたって、人生最後の一大事(宿願)の達成を確信した開放感からであろうか、秀吉家臣として扶持を得た祐兵が付けた「黒木惣右衛門」という従者を伴い、穏やかな袈裟衣の老僧となって旅に出た。そして自らの心の縁に依って、彼方此方と密かに中国各地を流浪をしたという。これらの一帯は、伊東(伊藤)家の先祖の昔から一族が多く住み、深い縁で結ばれた土地でもあった。文武両道の人で、仏教はもとより歌道にも通じていたと言われる義祐は、旅の先々に歌を残しながら諸所に寄宿して、天正12(1582)10月10日には、周防国(山口県)吉敷郡山口に来てしばらく逗留していた。
 
 この地には、義祐がそれまで放浪の旅人であった自身の境涯を綴ったかなり長い手記を残している。その内容は、自らの心境を側近や後世の知識人の添削にはよらないで自筆で発露したもので、戦国争乱期一地方に台頭した武将や大名にしては、極めて稀なる文書という。その文中、「周防国吉敷郡にある氷山興隆寺伝教の末弟中納言が、インドの釈迦と同じ19歳で発心して厳しい修行を行い仏道に専念している姿に接して大変感動した。この自らの漂白の旅に一抹の厳しさや淋しさはあっても、修行の身上の愚老沙弥として、未だ娑婆世界に滞留することは何も悲しむほどのことはない」と述べている。

また、この周防国(山口県山口市)吉敷には、この地で詠った和歌が残されていた。


       
行く末の 空しらすとの言の葉は
            
今身の上の限り成りけり

 これは、その昔、承久3年(1221)5月14日「承久の乱」において、鎌倉幕府の執権北条義時の追悼の院宣を出した後鳥羽天皇(院)が、実に19万の大軍を率いて上京した義時の嫡男北条泰時に敗北し、隠岐に流された時の御歌を義祐が心得ていて、その故事に寄せて詠ったものと言われている。歌道に通じた人であった義祐の知性のほども察せられるという。後鳥羽天皇は、わが国の歴史上有数の歌人であり、その作品は当時はもとより後代に渡っても大きな影響を与えた。
 また岡山県牛窓の地は、従三位義祐逍遥の地としても知られている。「牛窓風土物語」(刈屋栄昌著)があり、旅の途上にあった義祐は、ある秋の夕暮れ鐘の音に引寄せられて某所の村にさしかかり、ある寺で一夜の宿を乞うた。不審に思われ入口のところでしばらく待たされていたが、奥から遅れて出てきた住職から納所部屋(台所)の一隅が許された。その時、たまたまその寺で行われていた俳句会の朗々とした声が耳に響いてきたという。すっかり懐かしい気持ちに襲われ、その勢いで飛び入りの参加を頼んでみたところ、住職から運よく許されて詠った一句が伝わっている。


       
旅は憂し 窓の月見る 今宵かな

 この「旅は憂し」とは、単なる旅の疲れや不都合な気分のことではなかったであろう。むしろ、義祐の人生における「最高の告白」であったに違いない。ひとえに自分の増長傲慢と不覚がもとで、家臣たちの多くに不和を誘発し、その間隙を突かれて島津氏による激しい調略と侵攻を受け、ほとんど戦わずして日向国を奪われ、他国へ退避して来た遥かな故郷への諸々の辛い思い。また戦場に消え散り散りになった家臣・領民たちへの果てしない懺悔。そして、何よりも「羽柴秀吉に伊東掃部助を介して接触し、日向国と伊東家再興のため将来を託したこと、二男祐兵を秀吉家臣として仕官させ再出発したその後の様子」など、今や無益な放浪の身上になっても気掛かりは絶えることはなかったのである。そして、行く末の悲願達成を日夜神仏諸尊に祈願しながら旅をしているその心境を表現したものと察せられる。
 この句は、その夕べの俳句会で披露された中で一番の秀作に選ばれた。出席者一同大いに感じ入り、作者は誰ぞと詮議が始まった。それが、実は今夜飛び入りの名もわからない、あのみすぼらしい旅の老僧とわかり「彼の僧は、どこの何者か・・」と声が上がって、すぐ本人探しが始まった。ところがその時、老僧は奥の部屋の騒ぎを察してすでにその場を立去っていたという。

 義祐の残した和歌がどれほどの数にのぼるかは私は知らない。しかし、かなりのものが知られていると推察される。そこで、義祐という戦国武将の<虚像と実像>という視点から、
その<心の世界>を些か覗けるかも知れないと考え、以下その幾つかを拾って鑑賞することにした。


    【虚像と実像】
 

        <日向の龍>伊東義祐・心の世界

           (和歌十首から見える人間像)


○神代よりその名は今も橘や 小戸の渡りの舟の行く末


○とぼけたる御顔におはす石仏 ほのぼの温き春の日に濡れ


○飛ぶ鳥にいざこと問はん行く水の 
                たえぬ逢瀬はありやなしやと

○岩の上に馬より落ちて腰ひざを 築波の川にぬるる袖かな

○うす霧のたえまを見れば秋風の 残る梢や青島の松

○今日ぞ見る稲荷の山の紅葉の 青かりし色は松の村立

○夢の夜を頼むもはかな星あいの 一夜の程の契りなりせば

○月やありぬ春や昔の春ならん 我が身一つはもとの身にして

○哀れとは思ふや祖母の懐を 葺不合の神風の声

○愚かなる身をし哀れむ心こそ 世に大君の慈しみなれ

○里人に問わずばいざや白波の 玉依姫の宮の浦とは
                         (歌語り風土記より)


       (出典)●「都於郡懐古」 伊東崩四百年記念
             
大町三男著 昭和54年 杉田書店発行 
            ●
「日向記」(在此入道道記)飫肥紀行(永禄5年)


     <参考サイト>:歴史データ館 将軍外交
                 
(室町幕府 将軍足利義輝と伊東義祐)



 このように旅先に伝わる法師義祐の残像は、もとより「行方も知らぬわが思ひかな」の吉野山の西行法師や「うき我をうれしがらせよ かんこどり」と詠んだ「奥の細道」の松尾芭蕉ほどの歌人ではなかったにせよ、「三位入道殿は、歌道の数奇人にしてその風流は類なし」(日向記)と評され、この世の「地上一寸の極楽世界」を愉しみ、浮き上がりつつ遊歩する悟りの人、漂白の詩人の如しであった。まさに「悟りの世界」とは、人の俗に足を捕られた時節にはおよそ「不可説」であろうか。それは、地獄に燃えたあがった戦国の時代、日向に轟いた猛将義祐の風評や記憶に囚われた人々の「世間の視界」からはすっかり遠離していた。

 時が経って、旅の愉しみの熱意余ってのことか付き人の黒木惣右衛門さえ見失った義祐は、天正13年7月中国から船便を求めて一人で泉州の堺に向かった。ところが、船中で発病したため、船頭から途中堺浦の浜辺に下ろされて近くの道端に行倒れになっていたという。その情報が「あの大法師は、昔は一国の主であったらしい」との噂となって、祐兵の従者の元にも伝えられた。「祐兵に済まぬ、迷惑をかけるから」と気遣う義祐は、まもなく、羽柴秀吉に随伴して他国へ出陣し不在であった大阪の祐兵の屋敷まで運ばれたが、その後まもなく没したという。これが、日向で若くして深く仏弟子の世界に入り、波乱万丈、この世の修行満願となった彼の戦国大名・従三位義祐の最期であった。


(11)秀吉遠征軍 25万>祐兵 日向薩摩へ案内 島津義久・義弘大敗

 その後、天正14年4月から6月にかけて初め豊後の大友宗麟、次いで大友氏重臣高橋紹運、その子立花統虎はじめ九州の諸大名から大阪城の豊臣秀吉のもとに、島津討伐の緊急を告げる請願が届き、秀吉は、遂に翌年天正15年3月1日、全国から25万人の軍兵を動員、莫大な物資を調達して島津氏討伐のため大阪城を出立した。
 入道義祐の入滅の時期は、伊東祐兵が、島津の九州征伐に向かう羽柴秀吉・秀長率いる遠征軍の大軍を、日向・薩摩方面へ案内して奇跡的に日向に帰還し、その功績によって、太閤秀吉から日向旧領のうち飫肥を含む1700町が与えられ、悲願の伊東家再興と飫肥藩の成立が約束される、およそ3年前のことであった。

 時に義祐73歳。それは、突然の島津氏の日向侵攻によって、天正5年12月すでに隠居世代65歳の老躯に激しく鞭打って、背後に聞こえる戦火の蹄と異常な喧騒に急き立てられつつ、日向の佐土原城、そして本城・都於郡城を後にしてからおよそ8年の歳月が流れていた。

 なお、ちょうどこの時期、奇しくも豊後で別れた義祐孫の祐益(伊東マンショ)は、ローマ法王遣欧使節の正使として、長崎から出発し、ヨーロッパに渡海してから往復8年間の旅路の途上にあり、スペイン国王フェリペニ2世に謁見したあと、ポルトガル・リスボン、スペイン等の欧州諸国を回って先進的文物の見学や国際交流に勤しんでいた。
(参照「日向国盗り物語」石川恒太郎著「都於郡懐古」大町三男著)

 このような、日向伊東氏と戦国大名義祐の足跡を概括的に振り返る時、太閤秀吉の九州征伐を利用した祐兵の伊東家復興・飫肥藩成立という奇跡は、勿論直接的には秀吉配下にあった祐兵の涙ぐましい働きと幸運がもたらしたものであった。しかし、その祐兵にお家再興の闘魂を与え、四国伊予から京・大阪に転じて秀吉に仕官させて、その奇跡の招来を采配した陰の存在、その仕掛け人は、まさしく稀有の大戦略家であった父従三位入道義祐その人であった。

 義祐は、自らの慢心と不覚によって島津義久・義弘兄弟率いる島津軍の日向国大挙侵攻を誘発し、島津氏に対しほとんど戦わずして日向国を追われた。ところが、その後の飫肥藩誕生に至る日向伊東氏逆襲の仕掛けと戦いにおいては、戦国史上に異彩を放つ戦略的思考と不屈の闘争心を示したと言えよう。それハイライトは、結果としての「飫肥藩の誕生」が、実は、原因としての「義祐の豊後落ち(退避)」に始まっていることである。
 また、その豊後落ちに見る執念は、これまで世間で言われきたような単なる逃亡や逃避行ではなかった。何故なら、都於郡城や佐土原城に、島津義久軍が突入する危機が迫り、すでに日向全土が、島津連合軍に包囲された状況でもあった。大将が、戦火に焼かれたり、諦めてしまって自刃したり、討ち死にしてはすべては終わりである。
 従って、義祐主従約100名の日向脱出は、まさに「死中に活」を求め「九死に一生」を得るが如き敵中突破の行軍でもあった。
 
 すなわち、日向伊東氏のお家再興と飫肥藩誕生に至るステップは、先ず島津連合軍の日向大侵攻によって、①「伊東崩れ」に続く義祐主従の佐土原城・都於郡城出奔、②島津軍の包囲網敵中突破と「豊後落ち」、③豊後大友・伊東連合軍による「高城合戦」、④四国伊予3年間の河野家逗留による「時節到来の待機作戦」、⑤上洛(京・大阪進出)による「新中央政権・豊臣秀吉への接触」と伊東家再興の支援要請、⑦秀吉家臣として二男祐兵(伊東家当主)の戦略的仕官、⑧祐兵の活躍・武功と秀吉の強い信頼、⑨秀吉・秀長による九州征伐遠征軍25万の日向・薩摩への水先案内人(先遣隊)の特命と見事な戦功の達成であった。

 そして、ここに至る政治的判断や再興戦略の画策を行ったのは父従三位義祐であった。また、途中、義祐のもとには隠密・密偵役の山伏三峯や、秀吉家臣であった伊東掃部助などの支援者が現れるという運命的な出会いがあったが、厳しい逃亡生活の中とは言え名だたる日向の戦略家でもあった義祐の周辺には、実際は、史書や伝聞に残らないもっと多様な多くの人材の関与あったと思われる。


(12)<天時天兵の戦略>因縁成就 「奇跡」伊東家再興・飫肥藩誕生

 このように飫肥藩の誕生をその経緯から眺めると、先ず島津軍の強力な包囲網を掻い潜って敵中突破し日向脱出を果した「豊後落ち」があった。此処から義祐・祐兵父子のお家再興に賭けた約10年間にわたる驚くべき不撓不屈の戦いが始まっていたのである。
 戦国日向のこのドラマを凝視し辿るとき、そこには興味深い新たな風景が浮かび上がってくる。それは、この大仕掛けはわが国の戦国史を飾る歴史的な大事件を通じて実現されたことである。すなわち、秀吉が永年打続いたわが国の戦国時代に終止符をうち、いよいよ日本全土の「天下統一」を果たす西国最後の大合戦、「島津氏鎮圧の九州征伐」がその大舞台であった。

 この合戦は、伊東氏と島津氏と間においては、過去に展開された「飫肥城の攻防戦」と「木崎原合戦」に引き続く、「日向国攻防と飫肥城争奪」の戦国の戦いであった。しかも、それだけではなく、全国的に見て戦国時代の最後を飾るに相応しい破格の歴史的な大事件であった。また、更に見方を変えれば、伊東氏と島津氏との特別な宿怨の歴史の下では、恰も鎌倉時代はじめ源平の合戦で勝利した天下人・将軍源頼朝が、富士山麓で大掛かりな「巻き狩り」(大軍事演習)を催した際に発生した仇討ち事件、「曽我物語」の故事をも想起させる因縁深い印象的な事件であったとも言えよう。

 それは天下人・秀吉率いる異常な大軍が、島津氏征伐のためにわざわざ九州最果ての国・日向国まで襲来するという未曾有の合戦であったが、天下を揺るがすこの合戦の原点の一角には、源頼朝の鎌倉時代以来日向国領主であった伊東氏の当主・義祐父子と太閤秀吉との歴史的な謁見と請願があった。当に、天の時を得て天の軍兵が降下して伊東家の再興という歴史的な偉業を実現したのであった。

 ところで、義祐は、伊東掃部助の仲介により太閤秀吉に通じ伊東家再興のため二男(当主)祐兵を秀吉家臣として仕官させた後、瀬戸内・中国道方面の「漂白の旅」の途上、その3年前に黄泉の国へ旅立ったが、秀吉による島津氏征伐によって実現した、まさに捲土重来ともいえるこの大願成就の「奇跡のドラマ」を、あの世から一体どのような思いで眺めたであろうか。
 そして、まさに雌伏10年、天下の大きな波動と転機を巧みに利用した、「伊東義祐父子による島津氏への報復戦略とその奇跡」という新たな視点と歴史再発見は、「日向の戦国史」に関心を有する人々に少なからず新たな興味を呼び覚ますと思われる。


(13)<名将の天恵> 戦国武将の逃走事件とお家再興

 一方、後年になって島津氏においても、伊東氏の場合と同じような島津家の存亡と盛衰を決定づける歴史的事件が発生した。島津義弘は、慶長5年9月15日「関が原の戦い」において豊臣方の西軍として参戦した。東軍10万、西軍8万の東西両軍が激しく対峙する中、午後になって「小早川秀秋らの東軍の一角」が、徳川方に寝返るという予想外の事態が起こった。これによって、戦場の大勢は急速に東軍勝利に向け動き出す中、島津義弘軍は気が付けばすっかり戦場で逃げ場を失って徳川軍に包囲され、絶対絶命の危機に立っていたという。

 しかし、危機一髪のその時、義弘が採った決断は、死中に活を求める「敵軍の中央突破に続く退却作戦」であったことは有名である。徳川軍の虚を突いたこの義弘の必死の作戦は、徳川家康の本陣の前方を駆け抜けて関が原の戦場の外へ逃走する行動であった。
 運よく戦場の圏外へ脱出に成功し、猛烈な勢いで逃げる義弘の一隊は、追撃に移った徳川軍を振り払い、また義弘に随伴する部隊を幾手にも分隊し撹乱しながら、遂に一路泉州・堺まで逃げ切ったのである。そして、その後は、安全策をとり船で海路を走り、国許の日向・薩摩へと辿り着いたという。
 この義弘の敵中突破大逃走の場合、開戦前の義弘軍は約1500名であったが、薩摩に帰還した時点で義弘に従っていた者は僅か80人ほどだったという。この数字は、その逃避行が如何に劇的で凄まじい事件であったかを物語っていた。
 ところが、関が原の合戦に参加した西軍の主要な大名の中で、戦後、徳川家康に再評価され従前の身分を守りきった大名は島津義弘だけだったとされる。

 そして、後世の語り草となったこの義弘の「敵中突破・逃走作戦」が強く作用したという、家康の「島津家安堵の裁定」のその背景には、三つの理由が考えられる。
 先ず、①義弘は、関が原の合戦の直前に起きた秀吉の朝鮮の役(慶長2年~慶長3年・1597)において大いに貢献し、終戦時の困難を極めた撤収作戦においても功績が大きかったこと、②元亀3年(1572)、家康が武田信玄と戦った「三方原の戦い」において、武田軍騎馬隊の猛攻撃を受けて織田・徳川連合軍の本隊が崩壊し、家康自身が討死の危機に陥った時、一転「死中に活を求めて」命懸けで戦場から浜松城へ一目散に逃走した。途中あまりの恐怖のため馬上での脱糞も起こしたが、それに気付かないほどだったという。この家康自身の強烈な逃走経験があったこと。③関が原の戦場において、本陣に着陣しその急場に臨んでいた家康は、目前を敵中突破して脱走し、徳川軍の猛追を回避しながら関が原から逃走に成功し終えた西軍の島津義弘をまさにその目で見た。そこに、三方ヶ原戦場から脱走して生き延びた若き日の自分の姿を重ねあわせて、心中に映える「武将の華」を見たに違いない。
 そして、この事件があって後年、義弘の島津氏は、徳川幕藩体制の中で外様大名でながら信任を高め、不動の地位を確立するに至った。

 このように、太閤・秀吉によって「島津氏征伐」合わせて「飫肥藩誕生」の原点となった伊東義祐親子による「豊後落ち」の逃走劇と、家康が「関が原の戦い」の「西軍の敗者・島津家」を安堵裁定する契機となった義弘の「関が原からの脱走事件」とは、戦場や戦いの内容は大きく異なっても、義祐・義弘両者が決断し招来した天運として、二つの事件に奇妙な一致が見られるように思われる。すなわち、「我ら、只今 生か死か」という突然の決定的危機において、決して諦めず、乾坤一擲断固たる決断を行い、至難の敵中突破を成功させたものである。勿論、それは両雄が唯一人だけの力で成功したものではなかった。当然、両脇は有能な家臣たちが固めていて、瞬間瞬間、適時適切に進言し相談したに違いない。その上で訪れた武将の天運として、お家安堵と家運隆盛の果実を獲得したことは、そこに戦国時代の名将らしい劇的な采配ぶりを感じるのである。
なお、有名な「武将たちの戦場からの逃走事件」には、次のようなものがある。 

①織田信長  「金ヶ崎の戦い」 元亀元年(1570) 織田・徳川連合軍3万が越前朝倉を侵攻 「袋の鼠」 
金ヶ崎の引き口
・逃走劇
 (原因)
浅井長政の反旗
②徳川家康  「三方原の戦い」元亀3年(1572) 武田騎馬隊猛攻で織田・徳川連合軍崩壊
浜松城へ決死の逃走劇
(原因)
家康の判断・読み負け
③伊東義祐  「伊東崩れ」   天正5年(1577)  島津連合軍の日向侵攻
義祐「豊後落ち」
脱出
(原因)福永丹波守(親族・野尻城主)反旗
④島津義弘  「関ヶ原合戦」  慶長5年(1600) 東軍10万・西軍8万の両軍
対峙・激突「袋の鼠」
関ヶ原からの敵中突破逃走
(原因)    小早川秀秋の反旗


 伊東義祐主従の「豊後落ち」は、これまで専ら悲惨な逃走事件としてのみ理解されてきた傾向にある。今回、この事件を全国に残された「戦国武将たちの逃走事件」の一つとして、その比較的な視点で概観した場合、其処には、隣国薩摩の名将島津貴久とその父子という、最高のライバルを得て、「天下の強豪・島津氏と一生戦い続けた男」として、従来の記録や伝聞には見られない新たな歴史の姿・風景が浮かび上がって来るのである。
 それは、打続く戦国の世に、常に断崖絶壁を生きる日向の大名として、勇猛で並外れた執念を発揮した不屈の戦略家・伊東義祐の映像である。

 神代の昔から豊かな歴史を育んできた日本の聖地・日向国。戦国時代「我こそ一番の主役」と名乗りを上げて、その日向の大地狭しと縦横の活躍をし、日向の戦国史に壮絶にして豪華絢爛の物語を残した伊東義祐。それは、全国各地の戦国武将にも見られない異彩であり、歴史的な宿命を背負ってなお不撓不屈の、「使命に生きる男の凄まじさ」であった。
 しかし、その晩年は戦場で討ち死にすることもなく、恰も、果てしない地獄を通り抜けて光明が招く極楽へ向かうような、「悟り」の心地であった様子が伝わってくる。そして、その戦国大名義祐の人生の後姿は、瀬戸内海・中国道各地を一人の「漂白の歌人」として、日向国と伊東家の再興を念じつつ、誇りと悲惨そして懺悔の真っ只中を行く、しかし超越的な生き様であった。



     飫肥の衝撃と日本史のゆらぎ

     <日向の龍>義祐 心の世界



 <参考文献>
 ①日向記(宮崎県史叢書・宮崎県史刊行会)
 ②島津義弘のすべて(三木靖・新人物往来社)
 ③鹿児島県の歴史(原口虎雄・山川出版社)
 ④中世日向国関係年表(FUJIMAKI sachio 聚史苑)
 ⑤ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』島津氏
 ⑥伊東氏大系図(東京大学史料編纂所蔵)
 ⑦古代豪族系図集覧(東京堂出版)近藤敏喬
 ⑧伊東氏歴史の主要文献(伊東家の歴史館)

 ⑨都於郡懐古(大町三男 杉田書店)
 ⑩伊東三位入道「都於郡没落を追う」(原田珂南)
 ⑪日向国盗り物語(石川恒太郎・学陽書房)




歴史の旅人:伊東 登<奈良県在住>
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