西郷の王道とブレイ クスルー
「西郷の明治維新」と伊東氏

<神仏の沈黙と破格の大胆力>

 如何なる天命で立ち上がり、何故「城山」で討死したか


西郷南洲追悼書


             勝海舟と内村鑑三の尊敬と賞賛

 <ラストサムライ西郷隆盛>「敬天愛人・至誠の人」。その偉大なカリスマ性と百万力のリーダーシップを頼りに旗揚げし開演された明治維新。
しかし、この壮大なドラマは明治元年の徳川幕府の倒壊からすでに「十年一昔」の時が経っても、平安時代以来800年の武家社会の強固な国家体質は一朝一夕に変え難く、維新政府の果敢な政策をもってしても全国に不穏なマグマが震動する「起承転結」の結論の出ない「未完成のドラマ」であった。まさに胸突き八丁、九割九分を以って道半ばとも言える有様であった。

 明治10年に至って、西郷は、わが藩の島津国父・久光はじめ
島津家および日本全土の武家社会に向けて、天下を揺るがす「大決断」を示したのであった。それは、後に鹿児島・城山の地において自ら壮絶な討死を演ずることになる「武家社会終焉の最終戦争・西郷の乱(西南戦争)」を立ち上げ、国論が分裂・混乱し「立ち往生同然」の至難の極にあった維新のドラマを、「西郷の器量」によって自ら名実共に鮮やかに完結させたのである。西郷の大局観--西郷を犯罪人に押し立てた霞ヶ関の「維新政府」は、結局のところ、「西南戦争の発動とその終息という西郷の荒療治のお陰」によって、ようやく革命政権の本格的なスタートを切ることが出来た」のであった。

 この経緯について、徳川幕府の内側にあって坂本竜馬、西郷、大久保、木戸などの討幕側の志士たちを縦横に疾走させ、明治維新の「影の立役者となり総合プロジューサー」とも称された
勝安房守海舟は、西郷の没後自らの著書「氷川清話」 (勝部真長編 角川書店・昭和47年4月30日発行)の中で(P51~P58、P237など)西郷隆盛の偉大さを書き残している。


            勝海舟の談話 「西郷の維新」
              --著書「氷川清話」より)--

 「明治維新は、<西郷の大胆識と大至誠>があったればこそ実現した。維新成功の急所は、畢竟幕府側の本城<江戸城の無血開城>が実現でき大江戸百万の人民の命が助かり、江戸の町が戦火で廃墟にならなかったことだ。 まさに官軍の江戸城総攻撃直前の猛りの時において、大胆にも、西郷は私の一言を信じてたった一人で談判のため江戸城に乗り込んできた。この時・その場所での西郷の大至誠は、さすがの俺も相欺くことはできなかった。小籌浅略をもってしてはこの人に腹わたを見透かされるばかりだと感じたよ。
 俺は、明治の世になってこれほどの古物になったけれど、しかし、今日まで未だ西郷ほどの人物を二人として見たことが無い。どうしても西郷は大きい。明治の今時、「元勲」などと称して澄ましている奴らとは到底比較できないよ

と語り、明治の誕生は「西郷の維新」であった、という大観察をもって西郷を賞賛して止まなかったのである。

 また、「余は、如何にしてキリスト教徒になりし乎」の著書で知られ、我が国最高のキリスト教の思想家で高名な文学者でもある「
内村鑑三」は、その著書において、西郷を「代表的日本人の第一位」に挙げ次のように勝海舟と同様の見解を述べている

              「内村鑑三」の西郷観
    
   --著書「代表的日本人」岩波文庫P26~P27より--

 
内村は、当代の日本最高の知性の人であったが、世界の歴史上稀有な大転換を成し遂げた明治を大観した著書「代表的日本人」において、

「明治維新は西郷によって始動し、全展開と推進について偉大な力が与えられ、全行程の要所において方向が指示された。
 わたしは明治維新が西郷なくして可能であったかどうか疑問に思う」


と、
西郷が、言わば「明治革命(維新)実現の総司令官」、「近代日本の創始者的人物」であった旨を後世に伝えている


    
<愚者は、卑しく多弁を弄して止まず、神仏は秘して語らず>


     ---------------------------------------------------

 そして此処に、慶長5年(1600)島津義弘により押役に任ぜられ、姶良郡帖佐平松から薩摩中郷へ転じた日向流伊東家で、幕末に薩摩吉利(加世田)に住し鹿児島本城出仕においては城代家老小松帯刀に仕えたが、明治3年帯刀突然の死後は、大隅・鹿屋郷(現:鹿屋市)に移った
薩摩伊東氏があった。西南戦争に臨んでは、鹿屋の一隊は「西郷の私学校」の軍兵ではなかったが、維新政府最高の重鎮でありながら無念にも下野に回った西郷の大義と武家の意地には呼応していたと思われ、また、この家は歴代島津藩の表方家老に属した奉行・目付など近習の小番家(こばんけ・治安維持・警察機能)であった役目柄、中立的な立場の薩軍として従軍したという。
 しかし、維新最高の功労者・陸軍大将参議西郷が、維新政府に排除されて城山に討死し、その輝ける維新決行の中央軍であった薩摩軍が賊軍とされては、この家も没落の憂き目・不運に遭遇し一家は立ち行かなくなり、その後、政情の激変と混乱の中で自らの確かな歴史さえも見失ってしまったのであった-----。



<目次>

■伊東一族 三方に分かれ参戦 <官軍><薩軍><島津学校党
■西南戦争・鹿屋部隊 ラストサムライ「島津学校党200名」
■西郷尋問に遂に発つ 「新政府の路線」に是異義あり
■「非情の権力愛好家」大久保 <決別>自国薩摩と無二の盟友・大西郷を討つ
■飫肥隊総裁 伊東直記 飫肥隊第一軍300名 日向諸藩出陣(準備中)
■西郷の師 伊東猛右衛門 西郷・大久保等 の薩摩藩士を変身させた思想家
西郷追放の口実「征韓論」 西郷参議「留守内閣」VS.岩倉海外組内閣の抗争
沈黙の将「西郷の大決心 <さらば武家社会惜別の西南戦争
■伊東元帥「南洲先生回顧談」 慈愛の人。強権腐敗と国民の困窮を看過できず
■ラストサムライ・故郷の風景 維新で消えた伊東源右衛門・息次吉の消息


■伊東一族 三方に分れて参戦 --- <官軍>・<薩軍>・<島津学校党>

 
薩摩伊東氏は、永正9年(1512)島津忠治の時代のお輿入れ、次ぎに元亀3年(1572)の木崎原合戦の敗戦、および天正5年(1577)12月の「伊東崩れ」の時日向を去り島津義久・義弘に仕えて島津家臣となった。豊臣・江戸時代を通じ大口、薩摩(東郷・中郷)、加世田、加治木、根占、鹿児島城内・城下などに主な拠所があったとされ、天保14年(1843)「鶴丸城の城下絵図」(鹿児島県立図書館所蔵)によると、当時の伊東氏一族の役宅・住居は、ご城内并新照院および二ノ宮橋通りと天神馬場通り、そして、山之口馬場通りに囲まれる相当広い一帯(天文館・商工会議所近辺)にあった。 

 「諸家大概」「本藩人物誌」等の記録によると、家格は「小番太刀」とあり、薩摩伊東氏は職制の上で、島津義久、義弘の副将・家老職・御使役ほか、歳久、家久にも属し各地の地頭、奉行、目付役等多くの重役を歴任している。特に薩摩藩の海外貿易、外国船からの海防などに当たる船方奉行はじめ「異国船取締掛」を幕末まで20年以上数十年に渡り担当し、伊東家には「異国船人数賦帳」(享保7年・西暦1772年2月29日)が残されていた。
 伊東氏の嫡家であったとされるこの家の系譜史料においては、藤原氏の宗家・長者を表わす「藤大夫」(とうたいふ)をも名乗り、歴代の官名に「源右衛門」を多く用いている。天明年間以降では、・・・・休右衛門(祐孝)--源右衛門(源四郎/二男)-次吉(〇〇右衛門?)と続き、家伝によると源右衛門(源四郎)は薩摩の加世田に住し吉利領主で若干26才で家老に抜擢された偉才小松帯刀に仕えていたと言う。
 なお、小松は西郷・大久保などの人材を見出して活躍させ、坂本龍馬等と協力して京の自邸・小松屋敷で密議を重ねて遂に慶応2年「薩長同盟」を成立させたが、更に、翌慶応3年正月には城代家老に昇格し、遂には、同年10月京都ニ条城において、諸藩を代表して将軍徳川慶喜に「大政奉還」を勧めるなど維新大詰めの主役の一人となった。また寺田屋騒動で負傷し窮地にあった竜馬と妻お龍を薩摩の自分の屋敷に招いて静養させるなど采配し、生前、坂本竜馬の人物評価においては西郷・大久保・木戸など志士の中で首班候補第一の人物であったと言う。その後、明治3年(1870)如何なる事情であったか「藩籍奉還」問題で久光に職を解かれ、間もなく大阪において病死(36才)した。
(注:小松帯刀は、戦国末期に島津氏に降った大隅・肝付家流の喜入領主肝付兼善の第三子・肝付尚五郎に生まれたが、安政3年(1856)正月、島津斉彬の指導と勧めで薩摩吉利領主小松相馬の養子になり公武合体を推進。文久2年その抜群の識見と器量ゆえに若干28才で島津久光によって吉利領主から薩摩藩の御家老・御側詰に抜擢された偉才。また、小松相馬は戦国末期に島津氏に服し大隅から薩摩吉利に転封された禰寝氏。第24代禰寝清香の時小松氏に改姓。平清盛の子「平重盛」子孫とされる)

 伊東源右衛門は、幕末維新争乱の中で、藩主守護の小番家として城代家老小松帯刀の下に仕えたが、役目柄、活躍の詳細は不明である。小松の死後は、維新によって財政基盤を失った鹿児島藩庁方針によって、失業した多くの武士集団と共に過密で生活し難い加世田・吉利など薩摩半島や鹿児島城下から大隅開拓地で多数の『○○堀」と呼ばれた領地を所有していた鹿屋郷の「鹿屋原」(鹿屋・田崎・祓川・大姶良等)一帯へ移住した。現在の「鹿屋市史」には、文化・文政時代から島津氏が進めた大規模な「大隅開発」の歴史と薩摩半島からの移住・転住を伝え、西南戦争時まで「鹿屋郷」の一帯に存在した「休右衛門堀」「次郎右衛門堀」「喜(基)右衛門堀」「下堀」など、島津家臣として開発領主であった薩摩伊東氏一族の名前を冠した数多くの「堀」の記録が残されている。なお、記録によれば一つの「堀」の広さは約40町歩で、薩摩藩の土地の区分では「抱地・かけち」と呼ばれた。(明治5年以前相続の「伊東源右衛門家戸籍」鹿屋郷/鹿屋市)


■西南戦争・鹿屋部隊---ラストサムライ「島津学校党」200名

「明治の西南戦争の時にね・・・、爺さん(実は、当主伊東源右衛門の嫡男次吉)たちは薩摩軍に属し参戦した。とは言っても「革命政府に異議有り」の旗を掲げた西郷どん(殿)の「私学校」の生徒ではなかった。鹿屋郷(鹿屋市)から参戦した約200名の兵士は、西南戦争には中立的な藩主(島津久光公:実は藩主忠義父)によって設立された警護隊(親衛隊)「島津学校党」に属していた。島津学校党(温古堂)は、薩摩藩の幹部に当たる上級家臣やその子弟から構成された別働隊だったが、久光を中心に都城島津家久寛など一族や上級家臣との連絡調整に当たるなどの任務も果たしていたと言われ、一説によれば「私学校」と勢力伯仲していたという。

 従って、西南戦争については中立的な立場であった島津学校党は、薩軍の行軍・暴走を監視する任務があったらしく、私学校の兵士との間でいろいろトラブルもあった。しかし、西郷決起への心情を共に強くして、あの歴史に残る熊本城・田原坂の激戦に、鹿児島から出発して大口、三太郎越え、人吉へと進軍し薩軍の後詰で参戦したという。
(鹿屋郷土誌/昭和12年発行、鹿屋市史/平成7年発行)


■西郷尋問のため遂に発つ---新政府の「路線」に異義あり


 大久保首班政府による西郷の暗殺計画が、暗黙の了解のもとに進行するなど事態が切迫しはじめた明治10年(1877)1月17日、当時最強と謳われた西郷率いる薩軍1万5000の将兵は、上京のため鹿児島を出陣し2月22日に至り、大挙進軍する薩軍を阻止せんとする官軍の前線基地「熊本城」を総攻撃。更に救援に南下してきた政府軍と激突して、ついに熊本城攻囲戦が開始された。

 薩軍の兵力は最大2万4000人であったが、官軍は山県有朋、谷千城、大山巌、西郷従道、黒田清隆をはじめ最大5万3000人と記録されている。初戦、怒涛のように烈しく殺到する薩軍を前に、これを守る官軍熊本城の鎮台兵は谷千城の指揮のもと着々とその来襲に備えていた。加藤清正が築城した熊本城は日本三大名城の一つと言われ、その堅固さを誇っていたため政府軍の鎮台が置かれていたのである。

 また、官軍は近代兵器で優れ質量共に圧倒していた。薩摩軍の猛攻は、独特の形状をした天守閣を炎上させ熊本市内も焦土に化したが、鎮台兵は大量の兵糧米を失いながらも50日以上という長期の篭城戦を見事耐え抜いていった。そして、博多から南下する政府軍を迎える中、苦戦の乃木希典少佐の率いる第14連隊は植木の会戦に臨んでいた。そこで薩軍の伊東直ニ小隊長配下の下級指揮官(押伍)岩切正九郎が、官軍旗手・河原林小尉を討ちとって乃木少佐の連隊旗を奪い取るという事態が持ちあがったことは歴史に特筆されている。

 一方、高瀬の会戦に敗れて後の薩軍1万0000人は、田原から吉次の丘陵地帯に「五十歩に一保塁」「百歩に一胸壁」と言われる強固な陣地・長大な保塁を構築しながら官軍の南下の阻止を図った。この田原坂の激戦は、西南戦争の帰趨を決する天王山となり歴史に残る壮絶な戦いであった。両軍の主力を投入しての血みどろの肉弾相撃つ悲劇的な攻防戦となって、圧倒的な物量・火力を誇る官軍の攻撃は執拗を極め、守る薩軍の勇敢にして強靭な反撃は凄まじかった。

 それを物語る明白な証拠がある。官軍が田原で消費した小銃・弾薬は一日平均32万発、多い日には60万発にのぼったと言う。これは、後の日露戦争時の旅順第二次攻撃に使われた弾薬一日平均30万発を大幅に上回る驚異的な数字であった。この事実が、他国とではない兄弟相打つ内戦であった田原坂会戦の凄さを物語る。

 しかし、所詮、総合的な彼我の戦力差は明かであった。その兵器・物量の勝った官軍の前に、薩軍は次第に力尽き防衛線を突破されていった。特に、3月4日から3月20日までの約2週間で、双方合計10万0000人の将兵が激闘を行い、死傷者は3万5000人にも上がった。おそらく天もその戦いを大いに悲しんだのであろう、田原坂の戦いの大半は、春3月の「菜種梅雨」と言われる冷たい雨の降り続く中での死闘であったという。


     
 雨は降る降る 人馬はぬれる こすにこされぬ田原坂
            右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかに美少年
               山にしかばね 川に血流る 肥薩の天地秋さびし


 ところが、ここに実に不可解なことがあったと言われている。
何故か西郷は、薩摩軍の指揮を、専ら桐野はじめ、篠原、村田、永山、池辺、別府などの猛将たちに任せて、緊張の激戦の中にあっても豪放にして従容、「終始口数の少ない総大将」であったという。その西郷の心中に去来する思い・真実は何処にあったのであろうか。

 思えば、西郷は、若くして薩摩藩の名君と謳われた島津斉彬公にその素質を見出されて特別の薫陶を受け、勝海舟、坂本竜馬、高杉晋作その他の維新の獅子(志士)たちと幾度となく死線を越えながら活躍し、自らの断固たる意思とカリスマ性のある天才的な統率力によって実現できた徳川幕府265年の大政奉還、そして明治維新であった。
 維新によって、錦の御旗が徳川幕府から維新政府に移動したことによって、「武家社会というその巨大な国家経営体」を打倒され、倒産に追い込まれた全国の藩主たちや武家には、当面、自分たちの地位、領地、資産、そして経営権を、下級武士や農民兵を中心とした「革命政府の多くの将軍たちや高官たち」にすべて奪われること以外、ほとんど利益の無い悲惨な出来事だった。

 そして、明治維新から10年目のこの時期に勃発した西南戦争。そのきっかけとなった「西郷の征韓論」は、一方に明治4年(1871)から2年間にわたり派遣された「岩倉海外渡航使節団組」と、他方、その2年間の不在中を支えた「西郷留守内閣」との間の政治的衝突の過程で起こった「新政権内部の政策論争」に端を発した争いであった。
 何分海外視察団の国内政治の不在は長過ぎ、他方において国内外情勢は激変し一時も気の抜けないない2年間であった。西郷筆頭参議が推し進めていた留守内閣の数々の政策は、西郷独特の巨大なパワーのもとに時差ぼけ同然の海外渡航組の眼前に極めて厳しい国内政治の現実をつきつけた。

 その最たるものはすでに留守内閣で閣議決定していた「朝鮮政策」であった。自ら「朝鮮友好使節」として朝鮮に派遣して欲しい、と強く要請する西郷と「国力増強・内治優先」を強く主張した岩倉・大久保を中心とした海外渡航組。両派の間で激論が続き形勢は二転三転し、西郷のあまりの迫力で事態に危機感を持った海外渡航組中でも薩摩に対して永年のライバルであった参議木戸を中心とする長州閥は、岩倉や三条など公卿勢力を前面に押したてた裏工作によって、維新以来の閣内最大勢力であった西郷を初めとする薩摩の分断・切り崩しを謀った。
 
 長州閥は、薩摩出身の大久保が西郷の最大の盟友ではあったが海外渡航組の同輩であったこと、加えて、生来権力欲の強い性格であった点を巧みに利用したと想われる。大久保は、当初薩摩色の強い「西郷首班留守内閣」派に身を置いていたが、長州は大久保に「西郷首班」に代わる「大久保首班」擁立を持ちかけ、明白な海外渡航派(長州閥)への抱き込みを狙ったという。
 積年の薩摩と長州のライバル関係は、維新政府のあらゆる局面の底流を支配していたようである。長州の当然の思惑は、西郷・大久保の離間による「西郷の失脚」合わせて「閣内における長州・薩摩間の勢力逆転」であった。これに対して、大久保は、長州を中心とするその動きには大いに心迷うものがあったが、新しい日本の進路については、「海外渡航派」として当然その政策に賛同する思いが強かったので、遂に「大久保参議首班」を餌としたその長州閥の調略・誘いに乗ったのであろう。


■「
非情の権力愛好者」大久保---<決別>薩摩と無二の盟友・大西郷を討つ

 大久保と西郷は、薩摩藩主の最高の側近として、加治屋町時代以来同胞であり最大の盟友ではあった。しかし、権力へ臭覚鋭い大久保の内心には
、常に西郷との個人的な関係において終始強烈なライバル意識が存在したことは当然のことであった。西郷の巨大な人間性と天性、そこから繰り出された政治戦略によって、江戸城が無血開城され、将軍家徳川氏の大政奉還にはじまり維新政府結成後の「西郷留守内閣」による矢継ぎ早の数々の革命的な基本政策の実現。

 一方、大久保は、後年にはその長けた行政手腕によって西郷よりも島津久光公から深く信頼されていた。しかし、薩摩の藩政時代と幕末維新のすべての時代を通じて、
島津斉彬公に導かれて、全国諸藩と数多くの武家・志士を包摂し「政治大局」を演出し指導する上で、西郷の力量や地位を越えたことはほとんど無かった。常に西郷の後塵を拝しあるいは傍観しながら、同級生として数え切れないほどの悲哀と無念をも味わってきたのである。
 二人は、加治屋町の青年時代の昔からお互いを意識しあった盟友ではあったが、その存在感と役回りの大きさにおいては、例えれば、
「西郷は常に燦燦と輝く太陽」であり、大久保の役回りは夜空の月であり昼間の残月であった。

 徳川幕藩体制250年の岩盤と強力な壁は、西郷が密かに推進した偉大な思想と政治戦略の土俵において次第に突き崩されて行ったが、この
「西郷のブレイクスルーの世界」は、勝海舟や小松帯刀など一部の戦略家を除いて、諸藩の多くの志士たちには目にも見えず事態の流れや動きもわからない想像を超えた超越的な政治計略と実現力の世界であった。この西郷の偉大な突破力で、江戸幕府の幕藩体制が崩壊されたことによって、維新の時代は更にめぐり、「維新政府内部」の権力闘争、派閥抗争の「政治小局」時代へ大きく流れが変わった。そして、今となってはこれまでの両者の立場は一変したのである。

 大久保は、明治新政府内部での主導権と権力分配の抗争において、薩摩とは積年の宿怨消え去らない長州の木戸、伊藤や山県と大いに好を通じて、永年の盟友・西郷を排除して大久保自身がその頂上に立てる絶好の機会の到来、分水嶺を強く実感した。そして身震いするような誘惑にかられたようである。

 実は、薩軍をして「西郷の乱」に押しやり、「薩摩を賊軍」に至らしめた要因の第一は、いわゆる「征韓論争」であったが、その決裂の真相は、岩倉右府、木戸、大久保両参議による
「西郷に対する非常謀略」であったことが、大久保利通日記明治六年十月十八日および同十九日の条に明らかにされているという。(「西南の役薩軍口供書」小寺鉄之助編 吉川弘文館 昭和42年6月1日発行5P~P12)

 また、「伊藤博文伝」(中巻所収
)の記録によると、同年十月二十五日大久保に宛てた伊藤博文の密書があり、西郷の暗殺指令や討伐計画をめぐる事情が記され、伊藤は大久保に「ご一覧後、御火中奉願候」と証拠を残さないようにと念を押しているという。
 また、同二月七日付で
「西郷の薩軍蜂起の報告を受けた大久保が、当時京都行在所に供奉していた伊藤博文参議に宛てた手紙」の一節に「就いては、この節、事件の発端をこの度の蜂起に発(ひら)きしは、誠に朝廷不幸中の幸と密かに心中には笑いを生じ候位に之あり候」とあり、「譬え西郷が暴挙の中に居ようとも、その西郷の罪を鳴らして之を討つに憚るところはない」と述べているという。

 当時の明治政府、革命政権の政権運営・経営において、抜き差しならない派閥抗争、主導権闘争の分水嶺の赤裸々な風景を想像させる映像である。
 伊藤博文がわざわざ
「ご一覧後、御火中奉願候」と厳秘とした密書が残り、これが西南戦争の真相を告白する仕儀となったのは、大久保が突然暗殺に倒れ、これらの秘密文書を整理・廃棄する時間が無かったからでもあった。

 権力に対する臭覚鋭い大久保という政治的秀才には、維新政府の抗争は、天下国家の問題であったが同時に人間的・個人的な事情も大きかった。「西郷に負け続けて終わりたくない」「最後は西郷に是非勝ちたい」という甚だ素朴な「男のライバル意識・嫉妬」を持ち続け、「権力者としてのロマンと大欲」が同居していたのであろうか。

 当時の明治政府の文明開化と劇的な欧米様式の導入と転換は、世界史的にも極めて珍しい勇断を伴った大転換であったが、当然一面において、新政府指導者・高官の有頂天ともいえる「権勢の驕り」や「私利私欲」が目立った。
それは西郷が、「国や大衆の指導者・政治家に欠かせない心構え・戒め」として一貫して警鐘し説き続けた「無私」や「敬天愛人」の精神とはおよそ対極にある「落とし穴」でもあった。

■飫肥隊参軍 総裁伊東直記以下300名 日向諸藩の党薩出陣(準備中)


■西郷・大久保等薩摩藩士を変身させた思想家--伊東猛右衛門・祐之 潜龍)

 西郷・大久保・東郷など薩摩の名だたる志士たちは、薩摩における陽明学の第一人者として明治維新の「天下回転思想」の大黒柱であった「伊東猛右衛門・祐之」の熱烈な門弟であった。なお、伊東祐之は藩主島津斉彬に仕えた薩摩藩士で、猛右衛門のほか伊東茂右衛門・武右衛門・直右衛門を称し、また陽明学者としては伊東潜竜(潜龍)と号した。

 著書に「餘姚学苑」(ヨヨウガクエン)三冊を残した祐之(潜竜)の薩摩の陽明学は、嘉永3年~4年頃、先に門弟となっていた西郷吉之助(当時20才前後)と大久保一蔵がその教えに大きな感動を受け、その両者の強い勧誘によって次いで東郷平八郎、海江田信義、長沼嘉平、有村俊斉など多数の門弟を輩出した。鹿児島城下の加治屋町にあった猛右衛門(祐之)の門(塾)で行われる「伝習録」を中心とした熱気溢れる講話・修習は、それぞれ数ヶ月に及んだという。
 西郷隆盛全集(六)に見られる西郷、また東郷・海江田・有馬などが伝えた恩師・伊東祐之を語る回顧の言葉から推察して、猛右衛門とも自称した祐之の薫陶・教授は彼らに強烈な影響を与えたと見え、天下国家の人士・指導者として維新から明治に駈けて活躍した気宇壮大・命がけの気概の多くの薩摩人士を生み出したのだという。

 此処に、
当時二十歳前後であった西郷や大久保の勧めによって、一緒に修学した薩摩藩士海江田信義が、師の猛右衛門の人物について残した次のようなエピソード(懐旧談)がある。(南洲百話 山田準著 明徳出版社)
 「陽明の教えは、公道・公学であり、陽明学などは知らぬ」と突き放した、「無私」を素地とした「公・天下」実践の教えは、
その水脈が後の西郷の「敬天愛人」思想や薩摩藩士の行動規範に通じていて大変興味深い。  


        伊東猛右衛門の思い出(薩摩藩士 海江田信義談)

 長沼と私は、西郷・大久保の勧めで陽明学で有名な伊東猛右衛門先生の処へ往って、「陽明学を教えてくだされ」と言うと、先生はポカンとされて「陽明学とはどのようなものか知らない」と言われた。
 そこで、私は自分の陽明学信仰の旨を述べて是非にと言うたところ、先生は「陽明学というものは無い。道は天下の公道、学は天下の公学、孔子得て私すべからず、朱子得て私すべからず、とはこれが陽明の説なり」。「公道公学を陽明学と言われては困る」と話された。
 そこで、「なるほど、そういうわけでござるか、それなら陽明の教えを聞かして戴きたい」と言うたら、「それなら宜しいが、陽明学などと言われたら陽明が身震いするであろう。今の人は、人の足跡について人の言語を学び講釈をするのが旨いくらいのもので、陽明の心を真似るというまでにも至らぬ」と言われたので、私もなるほと思いました。

「幕末薩摩藩士・陽明学者伊東猛右衛門祐之とその家系」大平義行調査報告・平成4年/鹿児島県立図書館蔵:伊東明氏史料提供」 <人物と事跡>伊東猛右衛門(祐之)


 西郷は、「敬天愛人・無私無欲の人」と言われ、「伊東陽明学」の影響を強く受けた「礼節の人」であった。ところが、その儒教思想を基底に生まれた「朝鮮礼節使節派遣」構想を、意図的に曲解して「朝鮮征伐論」に仕立てたのが、維新政府が称えた「西郷の征韓論」の真相であったという。
 すなわち、今日までの歴史研究者の解明に拠れば、西郷の征韓論とは、その実、西郷筆頭参議を閣外に追い出すためのクーデターだったというのである。
(「征韓論政変の謎」伊牟田比呂多/海鳥社発行2004、12)

 
この政変によって、維新の盟友西郷・大久保は永遠の敵になった。
大久保は、現代霞ヶ関の高級官僚の元祖になっただけの先進性や合理性を重んじる際立った能史であったので、西郷の退陣に伴って「参議兼内務卿」(首相)の地位につき、「西郷留守内閣」の基本政策と理念を引き継いで「地租改正、殖産振興、優れた官僚体制など富国強兵を軸とする開明的な数々の功績を残した。しかし、西南戦争の翌年、その政治姿勢・政策に対する反作用によって暗殺された。

 このようにして、維新の勝ち組であった薩摩・長州勢の政治抗争の結果、西郷・大久保という「双頭の鷲」を失って二股に裂かれた薩摩の勢力は、当然のように大きく後退し弱体化した。反対に、永年の長州の悲願は達成され政治・軍事の長州閥は明治政府における最大の勢力になった。以後わが国の政治の主導権は、急速に伊藤、山縣、桂など長州勢力に握られていったのであった。

 また、先年、私共夫婦は中国での激戦で戦死した兄の慰霊のため靖国神社に参拝に行った。
そして、歴史学には貧しい私はこの「靖国神社の成り立ち」について、靖国神社は長州と最も縁が深いことを改めて知ることとなった。すなわち、薩摩の西郷や大久保と悉く対立関係にあった長州騎兵隊で有名な「大村益次郎の銅像」が、神社の境内正面に大きく聳え立っていることでも分る様に、大村益次郎が「靖国神社の創始者」であり、また「日本帝国陸軍の元祖」も、官軍の初代陸軍大将・参議であった西郷南洲ではなく大村益次郎であった。
 従って、靖国神社はその出発点に戻れば、官軍・徳川幕府軍、勝ち組・負け組を含めた全国民的な神社というよりは、一面において明治維新・西南戦争の勝ち組中心の神社であった。特に、維新政府で最も影響力のあった長州の面影が映じて来るのである。実は、これまで幾度かの参拝の時には、このような意識は生じなかったのであるが、近年の靖国の政治問題化の影響もあってか、明治維新の勝ち組中心に運営され、「ラストサムライ不在の靖国神社」とは何か?。日本の長い歴史・伝統を踏まえた全国民的な英霊と護国の神社であろうか、との疑問と共に胸中にポッカリと淋しい色をした浮き雲が湧き出してきたのである。

 言いかえれば、西欧列強の圧迫が強まる中、維新達成で発揮された天下国家の雄大な思想と断固たる胆力や腕力は薩摩勢であったが、西南の役の政変を起点にして、維新の最大の勝者で、その維新の果実に向かって最高の受益者は、政治権力や駆け引きにおいて一頭優れた長州であったと言えよう。
 そして、そのことが、当然、遺産として後の日本の政治風土・歴史の基盤となり現在に至ったと見ることができよう。
〔指標:総理大臣数は---長州(山口県)出身者が第1位で最も多く、伊藤、山縣、桂、寺内、田中、岸、佐藤の7人に対し、残念ながら、薩摩(鹿児島県)は、黒田、松方、山本の明治期の3名のみで4位に止まる。しかし、日本を愛し故郷を愛する者として故郷の政治家に偉人出でよ、と奮起を期待したい。〕


■武家社会800年惜別の西南戦争--大西郷の決心


 しかし、西南戦争の発火点は、「西郷の征韓論」の後遺症だけではなかった。幕府と藩の倒産によって全国の多くの武士・農民は失業にあえいでいた。加えて徳川氏はじめ幕府旧体制の諸侯はもとより、幕藩体制の中にありながら維新のために心血を注ぎ多大の功労者であった島津久光公はじめ多くの藩主諸侯たちも、今やすっかり過去の権益と地位を失っていたのである。
 これは、会社経営に譬えれば会長、社長はじめ重役、部課長等管理職、役付者の人々は悉く打倒され失職に苦しみ、会社の経営体制は意気軒昂な労働組合と組合幹部に奪い取られたようなものであった。
このため、革命政府に向かったその上・下からの不満・怒りそして抵抗は、当時甚だ不気味で且つ巨大なマグマとなって爆発寸前だったのである。このように維新政府成立から約10年目の新旧勢力の対立とせめぎあいは最高潮に達しまさに臨界点を越えようとしていた。

 加えて、欧米列強はその後の日本を大いに我が物に獲得せんと虎視眈々、着々と介入を狙っていた。西郷は、この事態に万一維新に逆流が生じ、反革命の大乱によって日本全土が更なる破壊と混乱の修羅場となる危険を誰よりも強く恐れていた。わが国が、そのスキを西欧列強につけ込まれて欧米諸国の植民地の餌食にされてはならぬ、そういう事態だけは断固防がなくてはならないと決心していたのである。差し迫ったその事態は、軽量の人間が万人をもってしても防げる性質のものではなかった。
 自ら全身全霊を奉げて維新の実現に漕ぎつけた「維新第一の大将軍」とでも称すべき西郷でなければ誰にも出来ない「最後の大仕事」であることを、西郷自ら自覚しての決起であり行動だったという。
官軍:海軍伊東兄弟---- 伊東祐麿海軍少将(戦艦「春日」「竜驤」艦長(兄)
                 伊東祐亨海軍大尉(戦艦「日清」「筑波」艦長(弟)

                             人物:元帥・海軍大将伊東祐

 3月14日から4月15日の間、官軍は黒田清隆を参軍とした衝背軍を八代の日奈久に上陸させたため、北上に気を取られていた薩軍はその背後を突かれて窮地に立った。そこで薩軍は退却して4月15日から6月1日まで人吉に割拠した。その後日向の山岳地帯への敗走行に移り、4月30日から8月21日延岡可愛岳突破。そして鹿児島帰還を目指した薩軍先頭旅団は、8月27日、日向・細島から船で薩摩・大隅の要衝である加治木に上陸した。幾度かの交戦の後一転加治木からの進軍をあきらめ蒲生に入った。
 また、海軍力でも圧倒していた官軍は、九州沿岸に9隻の戦艦を展開していたが、そのころ、錦江湾にはすでに伊東祐麿(元帥伊東祐亨兄)少将率いる海軍戦艦・春日と竜驤が、西郷の薩軍の帰還を待ち受けて遊弋(かいゆう)していたのである。

 明治10年(1877)9月1日、西郷は、幸い故郷鹿児島に決死の帰還を果たした。やがて、9月24日午前4時に至り総員突撃。城山において西郷を神と崇める私学校の敗残の猛将たちと共に、押寄せる官軍に向かって怒涛のような「武家社会終焉の大激戦」を演じて討死あるいは自決した。


 
「巨星落つ」--その大ニュースは雷鳴のような衝撃となって瞬く間に全国へ伝わった。大型台風一過のように西郷の英霊は、古き良き武家社会に生きた人々の深い惜別の哀しみを満身に荷い、全国の維新の空に深く垂れ込めた暗雲の一切をひとまとめに引き取って、西方浄土・彼の世に運び去ったのである

 
嘉永6年(1853)神奈川県の浦賀に米国使節ペリーの黒船が来航し大砲の力で開国を強迫られて以来、わが国は歴史的な国難として全国騒然となった。やがて「敬天愛人の人」・大西郷の百万力を頼りに旗揚げされ開演した「明治維新という壮大なドラマ」は、第1段階として維新戦争により「開国と体制変更」の形だけが出来た。しかし、それは人々の心も革命の中身も伴わないた50%の未完成状態であった。その後、約15年の歳月を要し、第二段階目のこの「西郷の乱」によって名実ともに完成されたのである。

 
ここに至り、全国国民は、このラストサムライとなった「西郷の壮絶な死」の現実を耳にして、こぞって「古き良き日本」と決別する一大決心したのであった。「西郷の大決心が全国国民の一大決心」となって、遂に維新は完成しいよいよ青空の下新日本の船出となった。言い換えれば、明治維新という天下回天の大事業は、結局のところ、西郷によって全国的に点火されて燃え上り、西郷という最強のエンジンが回転してこれを推進し、その終業においては、西郷自らと薩摩武士の身命を投げ入れて、天下の混乱を一挙に収束し・消火する果敢な停止装置役となって、まさに「起・承・転・結」の主役を担って完結を見たのであった。

 
日本人と国の将来を憂い、余人をもってしては動かせなかった、途方も無く重い歴史の扉を見事に打開した比類無き愛国の人。勤皇・皇国の英雄、維新最高の主役のであった西郷。この人は、譬えれば天の使者として、幕末の日本に来迎した「敬天愛人大師」あるいは「維新大明神」とでも言うべき御霊であったと言えよう。
(ところが、維新政府を踏襲したその後の政府は、「勝てば官軍負ければ賊軍」と言われる偏見と狭量さの故であろうか、西郷に比し軽量の多くの将官・政府高官たちだけは、新たな公卿--華族となって栄え・奉ぜられ、「明治維新はおよそ西郷の維新」と言われる中、この真に維新皇国の大恩人の御霊は、未だ靖国神社には奉ぜられてはいないのは不思議なことである。
 それはわが国開闢以来の神々の神意に叶い、およそ天理に沿っていると言えるのであろうか。
 もし、幕末に「大西郷が出現」し「西郷の大至誠と大決断」が無かったならば、この時代、わが国は西洋列強の植民地の餌食にされ、世界地図から日本国は消失していたかも知れないのである。)

■艱難を共にして国家の大業を成す--「南洲先生の回顧談」元帥伊東祐亨

 
西南戦争における西郷の壮絶な死は、後世のわが国のあり方について何を伝え、われわれは何を得て何を失ったのであろうか。
 大多数の人が、西郷は「桁外れの巨人」だったという。この場合、人間を目(肉体)で見る人は、西郷さんは「身体がデカイ人」だったと思い、人を心(霊性)で見る人は、西郷さんは人柄・精神・思想など「心の容量」が大きく、その心が海のよう深く空のように広い人物だったと感じるのである。勿論中には「西郷は、維新の以前と以後では変わってしまっていた」などという浅学の説明をする人もいる。しかし、
西郷の心と信念は、一貫して変わりようが無かった。それは、宇宙・世界観としての「天」(真理)であり、人間観としての「至誠」であり、政治・社会観としての「道義」であったという。
 このとき、西郷はサムライとして持って生まれたその天性と、天下国家の国士としての途方も無く厳しい人生体験を通じて、人間ではあったがその魂はある種の化学変化を起こして超越的な「西郷という巨大な現象」となっていた。ここに、その
西郷が自らの精神世界、行動規範を語った有名な言葉が残されている。
 この言葉は、その素養を陽明学や仏教(座禅)に染めた西郷という赤裸々な実在・実像を端的に表現していて、実に、
時代を超えて国家や世間の指導者たちを励まし、あるいは懺悔の気持ちを起こさせずにはおかないのである。


                <西郷隆盛の名言>

  ●命もいらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。
     この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にし国家の大業は成し
     得られぬなり。

   ●人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗れる

   ●人を相手とせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、
     他人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。

 すなわち、西郷はまさに「敬天愛人」至極の人、大義・大道の巨人だった。
反対に、明治維新の前後で見事に転向した「変節の人たち」は、一介の下級武士や百姓の身分から、突如名声と権力を手中にして出世し革命の初心を忘れ、栄華に耽った多くの新政府の高官たちだったのである。

 また、西郷という存在は、幕末当時、敵味方関係なく全国の志士たちはもとより、諸藩、幕府、朝廷に至るまで各方面に絶大なる信頼と人気があり、途方も無い吸引力を及ぼしたカリスマであった。この西郷の偉大な勇気と魅力の源泉について、
薩摩藩士として共に維新を乗越え後には初代海軍元帥となる伊東祐亨は、「余の観たる南洲先生」という次のような回顧談を残している。


       「余の観たる南洲先生」(伊東祐亨海軍元帥回顧談)

「先生が情に厚く義に強かりしことは顕著の事実であるが、先生は又人の身上に何事か起こり、其の人より相談を受けたる時には、恰も自己の身に懸かれる事件の如く之を見、誠心誠意を以って忠実に之が解決に力を致さるるのが常であって、通常人が、自己の為には周到に考慮しながら、他人のためには卑しくするという様なことは、嘗て之無かったのである」

 この談話は、「西郷の乱」発動の原因・動機について、実は重大な真相を明かしていると思われる。すなわち、大久保や山県有朋など維新政府高官たちは、栄耀栄華の立場を手に入れたことで、月日が経つごとに派閥政治と強権政治、華美狂乱が目に余ってきた。反対にその明治維新にすべてを賭けて戦った心ある一般の武家・志士たち一般庶民は、秩序の崩壊に途方に暮れ、経済的にも困窮に喘いでいた。
 
「ご維新の初志」を忘れ、国民から離れて腐敗してしまった維新政府の有様を、西郷はこれを看過できなかったのである。幕藩体制を打倒した明治維新の本旨は、政府高官の権力乱用と腐敗横行の世の中にしたり、私利私欲の実現にあらず、国家国民の生活、経世済民(経済)が当たり前であることを直訴するため薩摩を出立したのであった。しかし、徳川将軍家に代わって今や権力の魔力と快感に酔いしれた維新政府の多くの高官たちには、慈愛と至誠に溢れ高潔の巨人であった西郷は、「眩しすぎて不都合な存在」だったのであろう。

 
こうして、天皇制のもとで800年近い老練な武家社会が保って来た特有のアジア的・家族的な空気の統治。西郷の「敬天愛人」に象徴される、陽明学<最高の心・素心を押し立てた致良知、断固たる行動の教え>や座禅の修行など、慈愛で包む王道と万物一体の「仁」の政治。その寛容と誠意から発する強かな政治(マネージメント)は影を潜めた。
 代わりに、日本国の統治に歴史・経験の浅い新しい統治者たちは、明治維新と西南戦争の勝利に続く日清戦争の勝利、日露海戦の勝利という「勝利の豊穣」(バブル)を満喫した。そして、その「猛りと気合」によって欧米かぶれの覇道の政治、力のマネージメントを獲得したのかも知れない。この戦勝体験と激流の国家経営の行き着くところに、第2次世界大戦の大敗が待っていたと言えよう。
 もし、そうだとすれば、過ちの歴史を繰返さないために、明治維新以後のわが国社会の光と影を検証し、昭和天皇の王道の力でも止められなかった日本の政治に潜む歯止めの利かない危険なサガ(性質)と傾向を常に警戒して行かなくてはならない。


 
王道に外れ慈愛を伴わない過剰な軍国主義と官僚体制は、島国の民族性、外交下手、孤立無援、全員篭城、果ては女子供を含む「一族一国玉砕」という、戦国時代からの精神構造と相俟って、無明の第二次世界大戦の開戦から米軍の圧倒的な本土空爆を招来した。加えて人類史上最悪の広島・長崎の原爆投下の悲劇をも招来し数百万の人命をも失ったのである。
 また、戦場となったアジア各国・各地域においては、それに数倍する犠牲者と多大の惨禍・惨劇をもたらし、敗戦後のわが国は、今日なお外交上大きな後遺症を背負っている。加えて、台湾、樺太はじめ北方領土など多くの領土を失ったのである。先進的文化を基に強大な国力と狡猾な外交を展開した西洋列強。それに対し、飽くなき自制と忍耐力を発揮し、知恵を駆使した柔軟で強靭な外交を展開できなかった、わが国の「激情の政治」の結末であった。


 
このようなわが国の政治体質は、近年の「情緒的な怠惰な政治の姿」にも無縁では無いと危惧するからである。わが国の政治の有様は、残念ながら「国民の自覚・自立による断固たる政治」とは縁遠い、明治政府の体制を引き摺る「霞ヶ関の国家公務員に支配された官僚政治」が基盤であるために、他国に先陣を切る国際政治や戦略的政治にリスクを負わない。専ら「事後処理・他国依存」の政治で神経質に反応する。
 このため、将来において、ある国難に臨んで、抑制の利かない自己破滅型の特殊な政情に陥って突然、恐い熱風が全国を吹き荒れるかもしれいという強い惧れを禁じ得ないのである。徳川300年の元祖家康や、明治開闢の夜空に巨星となって輝いた西郷さんに聞いてみたいところではある。


■<ラストサムライ>伊東源右衛門息・次吉---ふるさとの風景

 
振り返れば、アメリカ・イギリス・フランスなど西欧列強と国内諸勢力による開国への圧力が沸騰し、変化の激流の前にすっかり行き詰まった幕藩体制。その転換をめざした維新戦争において錦の御旗を掲げた官軍として共に勝者であった。
 しかし、新しい日本の国造り・政治改革の進め方の手法においては、維新政府は、海外渡航視察を通じて欧米の科学技術・文化および軍事力に驚愕するあまり、平安時代以来の武士社会と日本文化とをすっかり破壊し、西洋を模倣した「脱亜入欧」の近代国家を目標にした急進的な政策を採った。

 それに対し、西郷と薩摩藩は、西洋式の近代国家の良さを採り入れつつも、東洋思想・日本文化の重さ・伝統を重視にした新しい日本国作りの改革路線を強く主張して新政府と大きく主張を異にした。西郷率いる薩摩軍は、いままでの日本の歴史・文化の限りない重さ故に、明日の日本国を憂うあまり、新政府の政策に堂々たる異義を唱えて尋問のため上京。しかし、その訴えは維新政府に傾聴されることは無かった。<問答無用>と一顧もされずその途上衝突し遂に賊軍にされたのであった。
(注:この西南戦争の大義は、トムクルーズ製作・主演、渡辺謙助演のアメリカ映画「ラストサムライ」に映像化された。勝元(渡辺謙)率いる反政府軍とは、西郷率いる薩摩軍を抽象化して模したものという。アメリカ人から見た明治維新を描いた娯楽作品であり、史実からは遊離しているものの大久保と西郷間にあった路線対立---わが国の歴史的分岐点を描いて世界的話題になった。)

 そして、亡父はさらに話を継いだ。「一方、後方支援の任に当たっていた島津学校党の兵士たちは、官軍の烈しい追跡を逃れながら、幸いその多くが死なずに逃げ帰ってきたという。しかし、暫くしてうちの爺ちゃんも官軍の摘発を受けて連行され、長崎に設けられた特設の戦争裁判所の判決によって制裁を受け、その服役の途中で死亡したそうだ。

 薩軍は、官軍と戦い敗れ去り賊軍にされたのでそれまでの武家の特権は剥奪され、島津殿(どん)からもらっていた一帯の見渡す限り広い領地(抱地・堀)も失った。その混乱の中で残った男兄弟の二人は失明の憂き目が重なり一家は養子・養女で離散した。お父さんは維新で没落し借金経済の家で育ったんだ。作人(農家)になってわが家も言葉で表せない苦労の連続だったよ・・・」。「西南戦争・最強薩摩軍団崩壊の軌跡」/学研 1990年発行、鹿屋市ほか鹿児島県郷土史料参照)。

 現代風に言えば、倒産、資産は差し押さえられ破産宣告されたようなのであろうか。しかし、そのような風景が当時の薩摩の到る所に横溢していたのであろう。
 身近な家族に起きたその昔ばなしを聞いた時、維新から10年後に起きた西南戦争の歴史問題がわが家を直撃し、その影響はまだ昭和初期の当時の自分たちにまで及んでいることをひしひしと感じた記憶が鮮やかに甦ってくる。
 今にして思えば、わが家にも武家社会終焉の舞台を飾った伊東源右衛門(実名源四郎)嫡男伊東次吉という最後の武将(当時24才下級指揮官)「ラストサムライ」がいたのである。

 しかし、誰も逆らえないその運命的な天下大反転の時代の激流と混乱の中で、事柄の真相は見えなかったのであろうか、あるいはただ恐縮していたのであろうか。
その大地震の真相を知る由も無かった哀れな後に残された家族は、西南戦争の罪を意識して口を閉ざし、我家の没落を恥じて、遂にこのラストサムライの墓石には名前も刻まなかったという。
 官軍・薩軍と二股に引き裂かれた薩摩の武家社会。そこには、一方において一族の宗家としての責任・箍(タガ)を有し、領地と家格を与えられた御家(藩)に忠義を尽くして、それまでの我が愛する一家、ふるさと、そして祖国日本を守護するために懸命に生きなければならない支配者側・武家実権派のプライドと覚悟があった。他方においては、過去に対する身軽な立場に加えて、文明開化の新たな時流、機会到来に大いに期待を抱き、武家社会日本という強固な国の形を徹底的に壊し、欧米を真似たハイカラな国に作り代えようという、革命・維新政府派の激情が燃え上がった。
 天地入れ替わりの時代の激変は、まさに狂気であり無常であったろう。それが、武家社会の倒壊の時代に、青春をかけて生きて逝った誇り高きわが「ラストサムライ」のふるさとの風景であった。

 
             
 <備考>鹿児島県令「大山綱良」

 
維新政府の鹿児島の県令・大山綱良は、青年期、西郷・大久保と共に薩摩誠忠組を結成した同志で戊辰戦争では指揮官として奮戦。維新を通じ薩摩藩で西郷・大久保に次ぐ功労者であった。しかし、他方新政府に向かっては、その急進的過ぎる政策を烈しく非難するなど実力者・島津久光の代行者でもあった。
 大山は、政府軍による薩摩侵攻と占領に至る非常事態に先手を打ち、官軍が勝利の勢いに任せて「賊軍狩り」を行い、その戦争責任の一方的追求の「厳しい魔の手」が、藩主および藩政・人事体制、親族間にまで波及することを強く恐れた。そこで、その口実を与えないため県下一斉に関係書類の焼却処分を命じ徹底したという。従って、藩政を支えた家臣団の膨大な貴重な歴史資料は、家系図等を含めてほとんど灰になって失われたと言われ、今日の歴史調査は、島津公爵家所蔵「諸家大概」など数多存在した貴重な島津家史料(鹿児島県史料)の恩恵に拠る所が大きいという。大山綱良は、城山落城後、堂々たる覚悟によって新政府の命令に進んで従い勅使を伴って上京の途上、長崎に設けられた官軍の戦争裁判所の判決により当地で斬首された。

<参考史料>「西南戦争・最強薩摩軍団崩壊の軌跡」/学研


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