初代元帥・海軍大将 伊東祐亨

--鎌足第40代・為憲第30代・祐経第22代---  








■日清戦争
 連合艦隊司令長官 中国・清との
黄海海戦に全勝。
威海衛を基地とする清国北洋艦隊は降伏し、敵将丁汝昌は服毒自殺した。祐亨はその汝昌の棺を送るため没収した艦船の中から商船「康済」号を外し清に帰還させた。武人としての祐亨の優れた人間性は広く内外に伝わって有
名。
■日露戦争
 海軍大将・海軍軍令部長として明治天皇直属の帷幄(とばり)大本営に参じ海軍幕僚長として総指揮に当たった。
 祐亨配下の東郷中将を連合艦隊司令長官に選任し、日本海海戦には伊東大将・東郷中将が緊密に呼応しロシアに全勝。
日露戦争の軍功により軍事参議官および元帥に任官される。
人 柄
 祐亨は、豪勇の人で大の相撲好き、しかし蛇が大の苦手。ユーモアに富み、酒豪としても知られ若い将官・部下との談論を楽しみ敬愛された。書道の練達の士であったが歌道の大家との交遊も深く優れた歌を残した。当時、世間には維新の成功に続く日清日露との戦勝に勝ち誇り、政治的野心や名利・私欲に走る武人が多かった。しかし、祐亨は帝国海軍の最高位の提督・将軍となった自分の地位・名誉に恥じ入って、日清・日露の戦勝は、天皇陛下をはじめとする国民一致、将兵全員で勝ち取った手柄だ、と清廉至誠の武人として自分を戒め警世の気持ちを詠った次ぎの一句は有名。


    諸共にたてし勲をおのれのみ
       
世に誉れある名こそつらけれ

   




〔海軍三元帥記念撮影 中央:伊東祐亨 左:東郷平八郎 右:井上良馨

 <写真:「元帥 伊東祐亨」小笠原長生著(南方出版社)横浜市立図書館蔵複写>




元帥:伊東祐亨経歴
                                        <参考資料:統合戦争辞典> 

<生没> 1843年6月9日(天保14年5月12日)生
1914(大正3)年1月16日没 享年71才
<名前の変化> 初金次郎、四郎左衛門、四郎、祐亨(スケノリ)<他にスケユキ、ユウコウの呼称あり>
<出身地> 鹿児島県鹿児島市出身 薩摩藩士(日向伊東家・当主祐尭の孫祐武の子「伊東加賀守祐安」の嫡流。実は後継の弟伊東右衛門祐審の子孫)伊東義祐が、島津氏の侵攻にあい「都於郡崩れ」によって敗北し豊後に亡命したとき、この一族は義祐一行と分かれ島津家臣となる道を選ぶ。
<職位> 日本海軍軍人 日清戦争の連合艦隊司令長官 日露戦争時は明治天皇に導かれた帷幄・大本営に参加。幕僚長(軍令部長・大将)。海上前線の東郷司令長官(中将)はじめ連合艦隊に対し戦略・作戦の総指揮に当たる。海軍元帥・海軍大将・伯爵
<人柄> ①蛇が苦手  ②酒豪  ③相撲が好き
日清戦争後、自邸の裏に土俵を築き、鳳凰、海山など当時の全盛力士を呼んで部下の将校と見物した(伊東家は相撲が強い血統。伊豆国の曽我兄弟の父伊東祐泰は、相撲48手の河津掛けを残し有名。相撲中興の祖として崇敬され、菩提寺東林寺において、昭和43年元双葉山の時津風理事長以下大日本相撲協会一行により記念碑の序幕式が行われた。)
1851(嘉永4年)
1863(文久3年)
島津斉彬公御目見
勝海舟家に入塾の後、坂本龍馬、伊達陽之助(陸奥宗光)と共に 兵庫県小野浜の海軍操練所に学ぶ。
1871(明治4)
1877(明治10)年

1882(明治15)年6月6日
           7月7日
882(明治15)年12月19日 ~1883(明治16)年9月16日

1883(明治16)年12月15日
1883(明治16)年12月15日
1884(明治17)年2月8日

1885(明治18)年2月6日



1886(明治19)年6月15日

1886(明治19)年6月17日
1889(明治22)年5月15日
1892(明治25)年12月12
海軍大尉
「日清」艦長、「筑波」艦長
海軍大佐
「龍驤」艦長

練習航海中、全乗組員378名中169名が脚気におかされ23名死亡

「扶桑」艦長
「扶桑」艦長
「比叡」艦長        

須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長
同4月23日 「浪速」回航委員長 
同11月20日 「浪速」艦長 

海軍少将
常備小艦隊司令官
海軍省第一局長兼海軍大学校校長
海軍中将 横須賀鎮守府長官
1893(明治26)年5月20日
1894(明治27)年7月18日
1894(明治27)年9月17日
1895(明治28)年2月13日

1895(明治28)年5月11日
1898(明治31)年9月28日

常備艦隊長官
聯合艦隊司令長官
日清戦争・「黄海海戦」に全勝 威海衛の清国の北洋艦隊が降伏。
祐亨、服毒自殺した敵将丁汝昌の棺を送るため没収した艦船の中から商船「康済」号を外したことは、長官の優れた人間性を伝えて有名。
海軍軍令部長
海軍軍令部長 海軍大将

1904(明治33)年2月6日
1905(明治38)年5月27日   ~28日

1905(明治38)年12月19日

日露戦争開戦
1905(明治38)年5月27日~28日大本営幕僚長として連合艦隊を総指揮。前線海上の東郷司令官(中将)と呼応して日本海海戦に全勝

軍事参議官に就任


1906(明治39)年1月3日 1906(明治39)年4月1日 
1907(明治40)年    
1913(大正2)年11月10日 

1914(大正3)年1月16日
 

日露戦争勝利の功績により任元帥
日露戦争勝利の功績により功一級金鵄勲章
同功績により伯爵 功一級
大勲位菊花大綬章

死去 享年71才 従一位