<西郷・大久保・東郷等薩摩藩士の師 「天下回転思想」の指導者>

鎌足第39代・祐経第21代
     陽明学者 伊東猛右衛門(祐之・潜竜・潜龍)

 ---文化13年(1816)~明治元年(1868)3月12日 享年53才---


            伊東猛右衛門(祐之) 


 明治維新は、「薩長土佐連合」はじめ多士済済の志士たちの力が結集したからこそ実現できた。
そして、その中心となって強力に牽引し活躍した抜群の勢力は、西郷・大久保はじめ薩摩藩のサムライ・志士たちであった。しかし、はじめは薩摩地方の素朴な青年たちであったろう彼らを、後に全国的に際立って有能な薩摩藩士に育てた秘密は、名君島津斉彬の優れた影響力だけではなかったのである。

 実は、その西郷・大久保・東郷・海江田・有村・長沼など維新を飾った薩摩の名だたる志士たちを、新しい人間観、人生観そして社会観に目覚めさせ、「知行一致」の思想によって、彼らに維新の社会革命に向かって崇高な信念を抱かせ、天下国家を愛する断固たる志士・人士に変身させていった偉大な先生・教授がいた。その人は、薩摩における陽明学の第一人者「伊東猛右衛門・祐之」(茂右衛門・武右衛門・直右衛門・潜龍・潜竜とも呼ぶ)」で、また「伊藤猛右衛門」とも書く。
 始祖が日向から薩摩に移った歴史的な背景など諸般の事情によって一般に広く知られていないことであるが、祐之は、薩摩における明治維新の指導的な思想家で、「天下回転思想」の大黒柱であった。

 
祐之が主宰した「薩摩の陽明学」は、嘉永3年~4年頃、先に西郷吉之助・大久保一蔵両人が、茂右衛門の門弟となっていて、その教えに大きな影響を受けいた。師の深い人間性と思想の雄大さに心酔し、感動冷め遣らぬ西郷・大久保の両人は、次いで東郷平八郎、海江田信義、長沼嘉平、有村俊斉など有望な多くの藩士を茂右衛門の門弟として強く勧誘して、その講義・授業を受けさせたのである。
 鹿児島城下の加治屋町にあった茂右衛門祐之の門(塾)で行われた「伝習録」を中心とした熱気溢れる講話・修習は、それぞれ数ヶ月に及んだという。


 西郷隆盛全集(六)に見られる西郷、また東郷・海江田・有馬などが伝えた恩師・伊東祐之を語る回顧の言葉から推察して、「猛右衛門」とも自称した茂右衛門祐之の薫陶・授業は彼らの心底に強烈な影響を与えたと見え、遂に、天下国家の人士・指導者として覚醒し幕末維新から明治時代に駈けて華々しく活躍した「気宇壮大・命がけの気概」の有能な多くの薩摩の人材を生み出すことに結実した。
 西郷は、「敬天愛人の人」、「無私無欲の達人」と言われ「神仏のような慈愛に満ちた人」であったと言う。若くして、「伊東陽明学」を学び、強く影響を受けたことが、そのような歴史的な巨人を生み出す機縁となったのであろう。

 祐之は、文化13年(1816)鹿児島城下の下加治屋町に生まれた薩摩藩士で、藩主島津斉彬公に仕え、藩の「藍玉所」の役人をしながら若くして陽明学に興味を抱き独学で修行を重ねた。
 そして二十七才にして、内外の陽明学に関する過去の先人の言行・著述・事跡等を広く収録吟味した「餘姚学苑」(ヨヨウガクエン)という著書三冊を残した。また、この間「言士四録」で有名な美濃岩村藩の陽明学者・佐藤一斉が開いた江戸塾において、文政年間のニヶ年間学んだ都城の陽明学者・荒川元「秀山」を自ら師と仰ぎ、秀山のもとに度々出かけて教えを受けたと言う。

 西郷・大久保・東郷・海江田などの薩摩志士・門弟たちの残した言葉から推察するところ、祐之は多くの薩摩藩士に強く作用して、志士・国士として覚醒・変身させて世に送り出し、維新の原動力となした思想家として,おそらく長州における吉田松陰に似たような役割を演じたのであろう。
 祐之がこれまで一般に周知でなかったのは、西南戦争において「薩摩は敗戦国に、西郷が戦争犯罪人」となった時代背景が影響し、加えて薩摩藩士の思想的な指導者であったことに伴って維新前後の具体的な足跡が消失したり、思想家としての祐之の輝きを遮ってきたと推察される。

 ここに、当時二十歳前後であった西郷と大久保の勧めによって、共に修学した薩摩藩士海江田信義が、師の猛右衛門の人物について残した次のようなエピソード(懐旧談)がある。(南洲百話 山田準著 明徳出版社) 
 「陽明の教えは、公道・公学であり、陽明学などは知らぬ」と突き放した、「無私」を素地として「公・天下」実践の教えは、その水脈が後の西郷の「敬天愛人」思想や「薩摩藩士の行動規範」に通じていて大変興味深い。
 

 長沼と私は、西郷・大久保の勧めで陽明学で有名な伊東猛右衛門先生の処へ往って、「陽明学を教えてくだされ」と言うと、先生はポカンとされて「陽明学とはどのようなものか知らない」と言われた。 そこで私は自分の陽明学信仰の旨を述べて是非にと言うたところ、先生は「陽明学というものは無い。道は天下の公道、学は天下の公学、孔子得て私すべからず、朱子得て私すべからず、とはこれが陽明の説なり、公道公学を陽明学と言われては困る」と話された。 そこで、「なるほど、そういうわけでござるか、それなら陽明の教えを聞かして戴きたい」と言うたら、「それなら宜しいが、陽明学などと言われたら陽明が身震いするであろう。今の人は、人の足跡について、人の言語を学び講釈をするのが旨いくらいのもので、陽明の心を真似るというまでに至らぬ」と言われたので、私もなるほと思いました。

 祐之は晩年中風症を病みながらも、維新の到来・天下回転の時まで生存し、戊辰戦争に出征していた子息などの安否を気遣いながら、享年53才の生涯を閉じた。
 号は潜龍(竜)。その墓は鹿児島城下の島津家菩提寺 福昌寺にありまた後に東京都品川区の海晏寺に眠る。墓碑には「潜龍洞 無形菴主」慶応四年戊辰 伊東猛右衛門祐之」とあり、次ぎの辞世の詩(和歌)一首が刻まれている。

       
<あたし野の 露と消えても明らけき 玉のうてなは 光ますらん>

 
猛右衛門・祐之の薩摩の始祖は、「伊東平右衛門祐氏」という。この平右衛門祐氏の元の名前は、戦国末期、日向国の伊東軍大将として有名な「伊東加賀守祐安」の息「伊東源四郎」で、木崎原合戦前後の因縁によって後に島津義弘の家臣となった。

 天正19年(1591)9月、太閤秀吉は、天下人の強権を以って全国諸藩に朝鮮侵攻を命令。秀吉は、秀吉に敵対し「九州征伐」の合戦で敗北した島津氏に対しては、特に過酷な軍役・船舶等負担を強要した。このため、文禄元年(1592)4月島津義弘は、朝鮮渡海のため次男久保を伴って肥前名護屋を出発する。この時、命により伊東源四郎も義弘軍に随伴。ところが、翌年文禄2年8月島津久保は朝鮮の戦陣で病死。このため京の秀吉の執権・石田光成は、義弘嫡男忠恒を島津宗家義久の養子にするよう奨めた。後継の島津家当主になった忠恒(改名家久)は、文禄3年3月太閤秀吉に拝謁。同年10月忠恒は軍船で朝鮮渡海。天保5年(1834)の伊東平右衛門祐氏家系図の記録に「忠恒は、陣営で祐氏を謁見、島津家の世継に就任しここが本陣であると話されたこと。忠恒公、直ちに別営を作らせ入営。祐氏は早速祝賀のため御酒二樽と鯛三尾を献上した。同年11月2日夜にも大魚ニ尾献上。高麗御日記の伊東祐氏とは伊東平右衛門のことである」云々とある。島津義弘の下でもともと「伊東源四郎」を称していたが、忠恒が宗家に入り島津家久となってこれに属した時期以降に、何らかの理由で「伊東平右衛門家」の養子になって名跡を継ぎ「伊東平右衛門・祐氏」を称したことが推察される。
 実は、この名は、日向において、従兄弟筋に当たる日向伊東家の相模守祐梁--相模守入道祐松--伊東常陸守--伊東平右衛門と続く伊東平右衛門家の名跡を承継した養子名。他に「藤原祐豊」また「川崎(伊東)駿河守祐豊」とも称した。島津氏に服した日向伊東氏宗家の大将の一人として政治・軍事的な有用性、島津氏との縁戚を含む深い特別な関係等から、義弘・新納忠元を中心に島津氏に厚遇されてきた。

 日本文学界の巨星 埴谷雄高(般若豊)氏は、この島津藩士伊東家が母方の実家で、祐之は曽祖父(父方は相馬藩士般若氏・剣道指南番)に当たるといわれ、当伊東家が病死により嫡子なく断絶したため、多くの伊東家関係資料が母方の埴谷雄高(般若豊)氏によって保管されてきたと言う。(大平義行氏/平成4年)

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<引用文献>
①「幕末薩摩藩士・陽明学者伊東猛右衛門祐之とその家系」大平義行調査報告
  平成4年/ 鹿児島県立図書館蔵:伊東明氏史料提供」
②明治維新人名辞典(吉川弘文館)、国史大辞典、その他
③「本藩人物誌」(鹿児島県史料集)・「さつまの姓氏」(川崎大十)
④南洲百話「山田 準著」(明徳出版社 1997)
  西郷の陽明学の師「伊東潜竜」について
⑤「西郷隆盛」「山田宗之著」(明徳出版社 1993)
  維新の大功労者西郷が若き日に「伊東潜竜」に師事し陽明学について学んだことは、
  その後の彼の人生哲学、ひいては維新の実現に大きな影響を与えた。
⑥埴谷雄高全集「第16巻」対談・座談 二つの同時代史
  4 闇の中の夢想(映画学講義)第4講「祖父伊東潜龍を語る」

<参考サイト紹介 2005.9.21>


(1)財団法人西郷南州顕彰会   http://www.h2.dion.ne.jp/~saigou/index.html
     西郷南州年表
   http://www.h2.dion.ne.jp/~saigou/nenhyou/nenpyou.html
(2)西郷隆盛漢詩集「江戸漢詩選(四)志士より 岩波書店」
   http://www.shigin.com/takamori_kansi/