この系図の読み方 |
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元祖:伊東右衛門(祐明)嫡流
この家系の源流は、日向伊東氏が、戦国南九州における長く激しい国盗り合戦において、意外な結末となった最終戦での敗北を経て、島津家臣として薩摩に入国した元祖伊東右衛門佐(助)祐明とその子祐命(七郎・喜右衛門・)の嫡流。 |
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関ヶ原合戦 嫡家戦死「お家断絶の危機」
祐明には二男一女があった。嫡男七右衛門は、官名で喜左衛門・喜右衛門を、次男孫八は次左衛門と称した。義祐の「伊東崩れ」に際し、父右衛門とともに薩摩に入国したが、薩摩入国以前、日向国では喜右衛門は「祐命」・「三河守」、次左衛門は「孫八」・「金法師」等とも呼ばれた。そして、七右衛門は、嫡家として父右衛門(祐明)の家督を継ぎ、孫八(次左衛門)は、伊東加賀守の一子源四郎の家督を継いだ。これは、源四郎が、川崎駿河守を称した伊東一族の「伊東平右衛門家」の養子となることが約束されていたことによる。
「中郷史」(鮫島政章)および「さつま」の姓氏(川崎大十)等の記録によれば、伊東七右衛門・祐命・孫八の兄弟は、関ケ原の合戦(1600)につながる前年の島津家最大の内乱といわれた「庄内の乱」(1599)おいて、嫡家祐命ほか主要な人士9名が戦死し、ほとんど有用な人材を失った。 このため、右衛門を継ぐ祐命・孫八を失った薩摩伊東氏には、いよよお家断絶の危機が迫った
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新嫡家「源右衛門」流(中郷)
(養子:祐紀=祐豊)
島津家中では、伊東家の危機に臨んで伊東家の事情を熟知していた惟新公(島津義弘)が直ちに采配を振るった。、薩摩伊東家(嫡家)の断絶を避けるため、祐命・次左衛門兄弟の残された一女と、親戚の木脇大炊介流「田原五郎左衛門」(実は伊東祐紀)との間に生まれた子、「田原彦方」を御前に召出し、「新六」併せて「祐貞」の名を与え、義弘の命により七左衛門家の養子とし家督を継がせた。 その折義弘は祐貞の御腰物(長2尺7寸)および国俊の両脇差、併せて薩州千台(川内)のうち高城長野間に多くの采地を与えた。
時に元和3年6月15日、加治木御支配所の名寄帳に登記された。また、元和3年6月6日祐貞15才の時、義弘の命により祐貞直父・田原五郎左衛門(祐紀)を後見役として、伊東祐貞を「薩摩中郷の押役」に任命した。これにより、薩摩伊東家の断絶の危機は運よく回避され、薩摩川内にある中郷は、これ以降伊東氏嫡家の拠点となった。
なお、この「伊東祐紀」とは、実は加賀守祐安の子「源四郎」、「河崎駿河守」をも称した河崎祐長の三男伊東祐豊(すけとよ)である。
このように、関ケ原の合戦(1600)に参戦して戦死した右衛門の嫡家祐命・孫八の兄弟に代わり、関ヶ原以降の新たな伊東家の嫡家は、加賀守の子源四郎の三男祐豊と右衛門の一女との間に生まれた子によって継承された。
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祐安(源四郎)と右衛門の兄弟愛の証
このように、鹿児島伊東家の嫡家であった中郷流伊東氏は、島津義弘の采配によって源四郎の子孫が、右衛門の嫡家七郎右衛門(祐命)の養子になって継承したことで、次の三つの系統で構成されることになった。
①祐明・右衛門--祐命(喜右衛門)--祐種 源右衛門流・・・・・・・・右衛門流
②右衛門-孫八(次左衛門)-祐知 次郎右衛門流(仙右衛門)・・金法師流
③源四郎(新助・祐長) 新右衛門・新左衛門流・・・・・・・・源四郎流
また、加賀守(祐安)と右衛門(祐明)の兄弟愛と歴史の証となり、
この家系が、激動の歴史を乗り越え、祐堯-祐国-尹祐(祐武)-祐安(継祐明)ー
源四郎(祐長)となったことを伝えている。
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参考 |
鹿児島の伊東氏誕生<背景と由来>
日向の歴史秘話<祐安と義祐> |