日向の歴史秘話<祐安と義祐> |
「綾の乱」の予言と薩摩伊東氏の由来 |
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<祐安と義祐> 「天に二日なく、国に二君はない」 日向記、伊東氏大系図等日向の歴史の探索によると、日向の大将:伊東加賀守祐安は、幼少期は、第7代当主尹祐の長男で、将来の国主を約束された嫡男であった。義祐の八歳年上の異腹の兄に当たり、母の桐壺は、氏は中村であったが姓は、伊東本家の日向下向に同道した関東武士団に属し、重臣で格式の高い歴史的な姻戚家の名門河崎氏の出身であった。 ( 日向記巻第3、21-22の条) ---------------------------------- 尹祐の正室は、はじめ肥後国の阿蘇大宮司惟乗の娘であったが、二人の間に四人の女の子は産まれだが、尹祐が37歳になるまで男子には全く恵まれなかった。ところがある時、桐壺という美しい側室のもとに男子ができたので、尹祐は天にも昇るほど感激し、正室を気遣って躊躇していた長倉若狭守と垂水但馬守という両家老に繰り返し厳命して祝宴もさせて相続人に決めたのである。 ところが、その後5年経って、小身であまり身分の高くない「福永氏」という家臣家臣のもとに、際立った美貌の娘が現れて尹祐はその娘の虜になってしまった。 しかし、尹祐は、重臣たちの強い反対を押しきって、すでに十四歳で垂水又六に嫁いでいたその娘を離縁させ妻とし、垂水には河崎氏の女を与えた。 永正7年(1510)、その寵愛する福永の娘が懐妊すると尹祐は、その子が男子であれば中村氏(桐壺)との間に生まれていた男子を廃嫡しようと企図する。 それは、先妻の舅の阿蘇大宮司惟乗が逝去し、悲しみの正室がその後を追って死亡した時期でもあったので、当然周囲にとかくの噂も立ったのであった。 ことの成り行きを恐れた家老たちは、幾度と無く諌め強く反対し、長倉若狭守と垂水但馬守の両家老は、 「天に二日なく、国に二君はない」 と名言を繰り返し説いて尹祐に執拗に反対したため、尹祐は大いに不機嫌であった。 更に厄介なことに、そのようなところに綾城の城主「長倉若狭守」を陥れて綾城をわが手に奪取したいと狙う「稲津越前守」という重臣の讒言が重なり、尹祐を挟んで伊東家一家は騒然となり分裂状態になった。 しかし、伊東家の混乱と危機到来をおそれ、国主尹祐と対立して奮闘した長倉若狭守と垂水但馬守の両家老は、結局、綾城にろう城一ヶ月におよび抗議したが、ついに力尽きて、その後切腹して事件は終わった。 この阿蘇大宮司惟乗の娘の正室、側室の桐壺、家臣福永氏の娘の三人の女性をめぐる日向国主・伊東尹祐の女性問題の争乱は、日向の「綾の乱」(永正7年・1510)として大変有名となったのである。 こうして、福永氏の巧みな工作で、尹祐は、長男で後継者の桐壺の男子を廃嫡に追いやり、福永氏の娘を正室に差し替えた。この福永氏腹に生まれたのが、後の当主になった祐充、義祐、祐吉の三兄弟で、いずれも桐壺の男子の異母弟である。 祐安と義祐三兄弟の関係は、次の通り。
また、廃嫡となった長男の「桐壺の男子」は、権勢を欲しいままにしたとされる尹祐の舅福永氏の策略によって、「福永氏の養子」にされて成長し、後に尹祐の弟武蔵守祐武の養子となった。この桐壺の男子が、後の祐安で義祐とは8歳年上の異腹の兄であり、その祐安の一子が源四郎である。 この廃嫡問題は、当然ながら日向国伊東家の背後に支える家臣団の分裂と対立の先鋭化を招かずにはおかなかった。 日向記録によれば、福永氏は、尹祐の祖父「祐堯」の時代に近江国福永庄から日向に来て家臣団に加わった言わば新参の家臣であった。 一方の祐安の母桐壺は、中村氏を称したが、「氏」を通字とした源氏で、その実は、平安時代から高名な古代有力豪族の「小野氏」(注1)を先祖とする関東武士団の武蔵七党の一つ「横山党」。「川崎氏」や「中村氏」はその子孫であった。川崎氏は、日向伊東本家2代「祐重」が、関東・伊豆から日向・都於郡城に移住した時、伊東祐重に随従した一族の長倉氏、稲津氏、落合氏以外の、武蔵・相模・駿河等出身の関東武士の家臣団25家の中で筆頭格の重臣であった。すなわち、川崎氏は、伊豆・鎌倉・京において平安、鎌倉、南北朝の遠い昔から伊東家を護持してきた中心勢力であったのである。従って、すでに嫡男であった桐壺の男子が、日向以後の新興勢力の福永氏の工作によって廃嫡の運命に見舞われたその歴史的な異常事態は、まさに、突然日向伊東氏の平和と安定を破戒する信じ難い激震であった このような深刻な因縁と対立を抱えながら、祐安と義祐の両派は、戦国時代の日向国伊東家の新旧両勢力を巻き込んで家中を分断し、激しい紛争や内乱を繰り返した。 表中、尹祐弟祐武は桐壺の男子(左兵衛佐)の養父。
しかし、日向国の伊東氏の勢力拡大に伴い、家中の団結の必要が高まり、室町時代後期には薩摩や伊予など他国に退避していた祐安・祐明兄弟は、談合によって、「義祐の兄弟」として家臣団に復帰した。そして、二人は、「南九州の雄」伊東氏の繁栄のため、日向の戦国武将として目覚しい活躍をし義祐を助けた。 しかし、日向内外において、祐安・祐明兄弟の目覚しい戦果と名将の誉れが高まると、義祐には、また日向国の政権を奪われその地位を失いかねない、という猜疑心が高まり、伊東家の家臣団における主導権を祐安側に与えないような種々の工作が目立つようになった。 そのような環境の中で、元亀3年(1572)5月4日勃発した島津氏との紛争が「木崎原の合戦」であった。それまでの島津義弘との戦いにおいて、祐安・祐明(右衛門)等の活躍により圧勝し、念願の飫肥城」をも奪取していたため、義祐には大きな慢心があった。 「木崎原の合戦」の敗因は、義祐がその威勢に任せて、伊東家の海千山千の歴戦の勇士であった祐安・祐明などのベテランを遠ざけて、自身がすべての陣立てを取り仕切り、若手の武将たちばかりに任せて出陣したことにあったという。そこを、名将島津義弘に見事に狙われたのであった。 この「木崎原の合戦」で、義祐は、主要な名将・重臣や日向の将来を背負って立つ多くの人材を戦死に追いやり、突然に窮地にたたされた。そして、この敗北を機に、家運は急速に転落に向かい、歴史的なライバルの島津氏は一段と攻勢を強めた。そして、義祐は、天正5年年12月7日、遂に予想もしなかった姻戚で身内の福永氏の裏切りにより、島津氏の激しい侵攻を受けた。窮地に落ちた情勢を覚った義祐は、12月9日には本城の都於郡城を捨てて12月11日には豊後大友氏をたよって米良山中に入った。そして、12月25日に至り高知尾領主三田井氏の館を頼り、遂に大友氏のもとに使者を送り、いわゆる「豊後落ち」(亡命)したという。 この日向伊東氏の敗北と没落は、その遠因が尹祐の家督問題にあったとされ、それが歴史的な家中の根深い対立と騒乱に発展し、日向の有名な歴史秘話「綾の乱」の物語を生んだ。従って、伊東家の団結を股裂きにし、日向国に深刻な歴史的な内紛の種を持ち込んだ尹祐のこの女性問題は、伊東家の長い歴史の中でも最大の失政とされ、結局、日向国伊東氏を滅亡に至らしめたのであった。 「天に二日なく、国に二君はない」と、国主尹祐に向かって命懸けで訴えた長倉若狭守の「綾城の予言と怨念」は、人心の歴史的な波動となり、その事件の67年後、福永腹の国主義祐の晩年に至り、日向国と伊東家の没落となって的中し現実のものとなったのであた。 室町時代を通じ、日向の最大勢力に発展し、向かうところ敵なしの武力と繁栄を謳歌した伊東氏であったが、今や島津氏の激しい攻勢と侵攻により運命は回転し、「伊東崩れ」に引き続く「豊後落ち」となって崩壊に至った。誰も予想だにしない突然の事態に、伊東家の多くの家臣たちは、混乱と狼狽の中をそれぞれの縁によって日向から四散して行った。 加賀守祐安の家督を継いだ祐明はじめ一族は、豊後に落ちた義祐一行とは方向が異なり、薩摩との縁により島津に入国した。そして、祐安の一子源四郎は、その後、永らく義弘のもとで人質であった様子が伺える。 やがて、時代がめぐり「関ヶ原の戦い」や「庄内の乱」の戦いにおいて、祐明の子嫡家喜左衛門が死去したため、島津義弘の采配によって、川崎駿河守祐長(伊東源四郎)の三男祐紀(祐豊)が伊東養子とされてその後継となった。また、源四郎は、日向で新左衛門、新助、祐長等多くの名前を用いたので、子孫もその先祖の名を用いて家系を伝えている。。 このように、薩摩伊東氏の歴史は、日向との深い因縁や島津氏との濃密な関係のドラマを物語っている。 ---------------------------------------------------------------- (注1) 小野氏は、遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、平安貴族・文人。一族には、小野妹子、小野小町、小野道風、小野毛人、小野篁など高名の人物がいる。東北や九州などの地方官僚などを務めたものも多い。 武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁(タカムラ)の末裔で川崎氏の先祖。 |
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