<建築界の巨人・天才 日本の建築学開祖 第三回文化勲章>

 伊東忠太--「庵木瓜」の嗣子

伊東忠太画像 家紋






<米沢市史・米沢観光物産HPより>

伊東家の家紋
「庵木瓜」



<意味>
内側「木瓜」紋---朝臣藤原氏
外側「庵」紋---朝廷「木工介」
<工藤伊東氏の官職>
「皇居宮殿建築職」の表現

<「賜朱雀天皇」平安j時代 天慶4年(941)~>
藤原為憲(工藤・伊東祖)と庵木瓜

生   没  慶応3年(1867)10月26日~昭和29年(1954)4月7日(享年87才)
称   号
 東京帝国大学教授・名誉教授 学士院会委員・芸術院会員
 工学博士(東京大学)
 第3回文化勲章(昭和18年4月29日 湯川秀樹・徳富蘇峰らと共に受賞)
 
出   自
 米沢藩士・伊東祐順の二男として米沢氏座頭町に生まれる。

<曽祖父祐徳>
 寛政7年(1796)米沢地方に痘瘡が大流行したとき、米沢に招聘された江戸の痘瘡医柏寿に忠太の曽祖父祐徳がその門人となって、その治療に奔走した。また、眼科にも志した祐徳は文化3年(1806)藩命により眼科医療の修行を行い、文化6年(1809)には名君として知られる藩主上杉鷹山の眼嫉治療も行っている。
<祖父祐直>
 祐徳の嫡子祐直は自費で長崎に赴き鳴滝塾においてシーボルトの弟子となって眼科と外科を中心に医学を学び、米沢に帰国後は蘭方医の中心人物となって西洋医学の普及に努めた。
<父祐順>
 祖父祐直は子弟の教育には格別熱心で、嫡男祐順を長崎に派遣してポンぺ、ボードインに師事させ、二男道策(後に平田家の養子となった平田東助)をドイツに遊学させ、孫の伊東祐彦や忠太の幼児期からの教育に努めた。

履歴と業績
●明治6年医師の父祐順が軍医を志願し、家族と共に上京し、小学校入学。明治11年1月父祐順が千葉の佐倉にあった陸軍歩兵第2連隊に転属になったため鹿山小学校に転校。鹿山中学校に進み、明治14年には叔父の平田東助の友人(内山良蔵)が校長をしていた縁で東京外国語学校独逸語科に進学、その5年生の時同校が廃止になったので第一高等中学学校(一高の前身)に編入した。

●明治22年帝国大学工科大学造家学科に入学、同5年卒業。同大学の大学院に進み日本建築の研究に従事。博士論文「法隆寺建築論」を発表して、その後におけるいわゆる「法隆寺研究」の道を切り開いた。

●明治26年東京美術学校講師を皮切りに、造神宮技師、内務技師、次いで東京帝国大学工科大学講師、同32年には助教授、同34年には工学博士(工科博士)の学位を授与された。明治35年中国、ビルマ、インド、エジプト、トルコ、欧米を歴訪・見学して、同38年東京帝国大学工科大学の教授に就任した。

●この間、中国山西省大同において仏教遺跡雲崗石窟を調査。その後明治40年~44年にかけて中国、満州、インドを調査。内務省から委嘱され神社・仏閣・の保存・修理・改築の調査。そして大正4年には日光東照宮の調査と明治神宮造営局参与として明治神宮の造営に献身的に尽力した。
大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員、同6年日本美術協会第三委員長、同7年明治工業史編纂委員、同8年議院建築局顧問、同10年世界平和記念東京博覧会顧問。
その後も国家的な建造物に関する各種委員に就任。

●大正13年前後には沖縄を訪問し建築物の調査を政府に具申して、此れが契機となって沖縄の数多くの文化財が国宝に指定された。大正14年営繕局顧問に就任し、帝国学士院会員に推挙され、同15年には史跡名勝天然記念物保存協会評議委員となる。
昭和2年東京帝国大学を定年退官し、次いで早稲田大学教授に迎えられ建築史を講義した。昭和4年には国宝保存会会長、同15年京都ニ条城保存委員。

●大正11年明治神宮造営に関する功績により旭日中授賞、昭和18年4月29日には、湯川秀樹、徳富蘇峰等と共に文化勲章を授賞した。

 
伊東忠太の
設計建築物

 伊東忠太が設計実務に当たり造営された建物は数多い。
 主要なものは下記の通り。
    伊勢神宮、平安神宮、明治神宮、靖国神社、上杉神社、筑地西本願寺、
    不忍弁天龍門 震災記念館、豊国廟
 詳細一覧は下記の「参考情報源」
「人名資料室/伊東忠太」参照
    http://www.jmam.net/b/zinmei/itou-t.htm
家譜考察
<米沢藩時代と先祖書>

 この伊東家は伊豆伊東流とされるので、会津芦名家からその没落後上杉家に仕えた工藤祐経二男祐長流と推察される。伊東家に伝わる家系譜によれば下記の通り忠太祖父祐直より6代前の伊東彦右衛門なる人物から後代は明らかである。
 
しかし、先祖の名が武家と思われる(彦右衛門・その子祐雪)この伊東氏は、米沢藩の「先祖書」には出て来ないと言う。天正17年(1589)芦名氏を滅ぼした伊達政宗が会津全土と伊東氏の安積郡を握るが、豊臣秀吉は奥州仕置により蒲生氏郷に支配させる。このため伊東氏の子孫は、一旦伊達氏に従って米沢へ移り住むが後に伊達氏が仙台に移ったので祐長流伊東氏(安積伊東氏)は消えたとされる。従って、この歴史と米沢藩の先祖書とは符合する。とすれば、西洋医学・蘭学・長崎との接点を持ったこの「彦右衛門~祐雪~祐久・・・・」と続くこの伊東氏は何処から来て米沢藩に仕えたのであろうか。
 「父祖の系を伝えず」とされた当時の政治・時代背景と共に関心を生むところである。

   伊東彦右衛門  延宝4年(1676)4月24日没
   伊東庄助祐雪  正徳元年(1711)10月24日没
   伊東救安祐久  享保20年(1735)1月23日没
   伊東道安祐英  安永4年(1775)12月12日没
   伊東道安祐将  寛政2年(1790)7月24日没
   伊東昇迪祐徳  天保4年(1833)3月10日没
   伊東昇迪祐直  明治21年(1888)5月21日没
   伊東祐順     大正13年(1922)6月18日没
    <参考史料>米沢市史、松野良寅著「東北の長崎--米沢医学の系譜」

<米沢藩以前先祖の家系考察>
 伊東氏の系譜については、「大伊東主義」と言われる歴史観によって、伊豆・日向・奥州をはじめ全国的なつながりも見られ、鎌倉・南北朝・戦国各時代の戦乱を通じて各地に一族が移動・進出して、明治維新まではその家系図もかなり保たれてしばしば交流もあったという。
 この時期、琉球、中国、東南アジア、西洋諸国との海外貿易において圧倒的な勢力を発揮していた薩摩藩において、戦国末期没落以後日向を離れて島津藩主に近侍して、長崎、佐賀、琉球、種子島など各地で異国船取締り・海外交易監視分野で活躍した日向流薩摩伊東氏がいた。この系統には、関ケ原の合戦以降、同族の養子「彦方」に始まる伊東氏がおり本城出仕官名において「彦右衛門」など「彦」を通字として用い、その子孫にも「祐雪」「祐久」「祐順」「祐徳」などの同姓同名が見られる。佐賀藩士伊東家の「伊東玄朴」もこの系統である。
(「中郷史」鮫島政章編・非売品、「伊東一族」日本家紋家系研究所 昭和58年、 種子島家譜/薩摩藩・締方横目巡察の条)

 また、文政11年には、徳川将軍家斉の岳父・舅殿で当時政界一番の実力者であった薩摩藩主・島津重豪が長崎のオランダ商館を舞台に繰り広げた海外貿易に関係して親交の深かったシーボルトのスパイ事件が発生。島津氏の幕府に対する権勢の伸張をを恐れた将軍家斉の処断であったと言われ、重豪は藩主を引退し、幕府の弾圧によって多くの関係者が巻き込まれ追放や処罰を受けたという。また、米沢藩主の上杉鷹山は、日向伊東氏の旧領高鍋藩主の秋月種長氏の二男で上杉家に養子になり藩主になった。ここにも伊東氏と日向・秋月氏との交流の歴史的接点があった。忠太父祐順は、慶応元年江戸で、28才で日向飫肥藩で藩公伊東祐相に仕え、文久2年(1862)には63才で徳川将軍お抱えとなった大儒学者安井息軒の「三計塾」に入塾していた記録がある。(安藤英雄「雲井龍雄全伝」)
 もし、この米沢藩伊東氏が、伊達氏流経由の「安積祐長流伊東氏」で無かった場合、このような背景をもとに伊東氏系図から再度考察した時、伊東玄朴の佐賀藩士伊東家の場合と同じようなケースが推察される。すなわち、日向祐時流の薩摩伊東氏が、蘭学・医学・はじめ当時の西洋ハイテク情報の先進基地・長崎・佐賀・薩摩から縁起し、当時先進的人材の登用や異色の経営方針の実践によって、徳川将軍家から「諸侯中随一の名君」として褒賞され誉れ高い上杉鷹山の米沢藩に登用された可能性も否定できない。
 興味あるところであるが何分手元の限られた情報からは断定できないので今後有志による研究が期待される。

 
 家紋と家業
の嗣子  

 家紋は「庵木瓜」。この家紋は、平安時代前期に朱雀天皇に仕えて深い信頼のあった伊東氏先祖の藤原為憲の創作・制定とされる。為憲は、「平将門の乱」の発生に臨み京から藤原秀郷(俵藤太)に同行して将門討伐の為に東国に派遣され、その乱を鎮定した功績に対し朝廷から新しい官職「木工介」の受勲・任命をうけ、「工藤」の新姓と合わせて新しい家紋を許されたと言う。

 この庵木瓜の家紋は、為憲がそれまでの藤原氏を表す家紋「木瓜」を元に、此れを皇居・宮殿等を表す「庵」」で覆って合作し「庵木瓜」としたもので、その意味は「皇居・宮殿建築職の藤原氏」であるという。すなわち、この家紋は平安時代に「工藤伊東氏に対し朝廷から与えられた神聖な家業」---宮殿・寺院等建築職<木工介>を表現している。

 また、伊東氏は先祖藤原為憲(工藤改姓)の3代孫で宮藤大夫を称した維永、4代孫の駿河守維景の頃(1000年代初期)から皇居宮殿警護の近習職・武者所などの官職を持つ一方、在庁官人を兼ね蓮華王院領・狩野荘に職を持ち、「狩野城」を築くなどして天城山を含む伊豆半島から宮殿や船材の用材を海運によって調達していたと言う。それは鎌倉時代に引継がれ、また「日向記」等の記録によれば、南北朝以降「伊豆伊東氏」の本家が「日向伊東氏」(全国各地を含む)となって日向に移住してからも、伊東氏は皇居・宮殿の「木工介」の家業に対する強い使命感を忘却せず、徹底したこだわりを示し朝廷への奉公に努めた様子が伺える。

 更に、伊東氏が島津氏によって一旦国を滅ぼされた後、秀吉の九州征伐戦の勝利の功績によって秀吉から広範・多大な旧領地の回復を打診された時、伊東祐兵は秀吉のその褒賞を断り、逆に「飫肥・飫肥城」と一部の領地に限定して受領したのであった。
 歴史的な語り草となったこの祐兵の奇異な決断の裏には、戦勝後に、参戦した九州の多くの諸侯諸将に領地を再配分しなければならない関白秀吉の立場・気持ちを配慮したことだけではなかったと言う。それは、祐兵の胸中に伊東家が平安の昔から朝廷によって付託を受けた家業「宮殿建築職」(木工介)の使命を果たし御所奉公していくには、「良質な飫肥杉」と隣接した運搬に便利な「良港の油津港」が是非とも欠かせなかったからだと伝えられる。すなわち、皇室の尊崇と御所奉公に対する伊東氏の使命感と誇り---その時、家紋「庵木瓜」の存在が強く祐兵の心を突き動かしたのであろう。
 
 伊東忠太の建築家としての進路選択とその足跡や偉大な業績にも、この工藤伊東家のDNA(伝統)、神聖な歴史的家業への強い精神や使命感が強く感じられる。
 そのような意味で、伊東忠太という巨人とその日本建築史上の偉大な軌跡を振返るとき、伊東忠太こそは、まさに工藤伊東氏の家業・庵木瓜の嗣子と言えよう。

伊東家兄弟 
<兄・伊東祐彦>
祐順二男・祐彦は、帝国大学医科大学卒業後、医学博士九州帝国大学初代学長。

<弟・伊東道策 養子改正「平田東助」>
弟の道策は、安政3年藩医「平田亮伯」の養子に入り、平田家の分家を立て「平田東助」を名乗る。平田東助は、明治2年藩命により大学南校(東京大学前身)、明治4年には岩倉外遊使節団随行、ドイツのベルリン大学・ハイデルブルグ大学・ライプチヒ大学に学び研究。明治8年には日本人初の「ドクトル・フィロソフィー」の学位取得。明治9年大蔵省入省、以後伊藤博文の憲法調査団随行、貴族院議員、法政局長官、山県有朋の側近ともなった農商務大臣、内大臣に上る。平田は特に二宮尊徳の「報徳経済思想」とドイツの経済システムとの融合よって「わが国の産業組合制度」の創始者となり、明治33年に制定された同法制度は昭和18年まで続いた。
 平田東助は、長崎出身の「伊東巳代治」と共にわが国法制度・官僚体制の確立に貢献した中心人物の一人。功績により明治22年伯爵に叙せられる。

<弟・三雄蔵>
 村井家養子。山県林業技師、山県自動車商会創業・社長(現山県交通)

参考情報源 
●「伊東忠太」<山形県>
http://bunken.lib.pref.yamagata.jp/jin/200303010000166.html
●「人名資料室/伊東忠太」
http://www.jmam.net/b/zinmei/itou-t.htm
●「米沢市・伝国の杜」
http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/top.htm
●「東北の長崎--米沢洋学の系譜--」(松野良寅・山県大学教授 昭和63年)
 
<提供--「伝国の杜」角屋様>
「中郷史」鮫島政章編・非売品(昭和25年)(提供:伊東明氏)
 「伊東一族」日本家紋家系研究所(昭和58年) (提供:伊東明氏)
 種子島家譜/薩摩藩・締方横目