出典:英雄百人一首「工藤為憲」
<緑亭川柳(川柳金蔵)>江戸期・宝歴~寛永
藤原鎌足第11代。奈良平城京の藤原南家 武智麻呂子孫の工藤氏(伊藤・伊東氏)の元祖。父は常陸国司・讃岐介藤原維幾。母は桓武天皇親王で平家祖高望王の娘。この時から藤氏であると共に桓武平氏の子孫。天慶三年二月、平家親王・将門追討の時、俵藤太(奥州藤原氏先祖藤原秀郷)に与力して京から共に常陸国へ下向。
将門に襲撃された国司の父維幾を救援。官軍大将として貞盛、藤太と協力し将門を征伐。武官として「将門の乱」を平定した大軍功の恩賞として宮内省宮殿造営職「木工助」に就任。
藤原の「藤」と木工の「工」を合わせ工藤姓を興す。工藤為憲・工藤太夫を称す。藤原氏の武家・武将の始祖。家紋「庵木瓜」の創始者。従五位下、伊豆駿河守護・甲斐・遠江権守。 なお、為憲の祖父は、上総介・従四上の藤原清夏、母は平安京の桓武天皇の孫娘に当たり、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇と異母兄弟に当たる「第五皇子の万多親王」(まんだのしんのう 延暦7年・西暦778年~天長7年・西暦830年)の子「正行王」の王女。 |
遠江守工藤為憲は醍醐、朱雀、村上三代の帝の信を得て、将門征伐の時も武蔵の国に下り軍功ありし人なり。伊藤、河津、狩野、二階堂、天野などの先祖なり。今武家の藤原氏多くあれどことごとく氏為憲の後胤なりという。その新しい任国遠江にて別るる人の多かるという。 |