桓武帝夫人吉子と伊予親王


「伊予親王事件」--藤原南家の大打撃



          大納言藤原雄友の妹:吉子 <伊予親王の母>


 吉子は、「右大臣藤原是公」の女子で、大納言藤原雄友の妹であったが、桓武天皇夫人となり、桓武天皇第三皇子伊予親王の母となった。

 吉子は、平城天皇即位決定の翌年の大同二年(806)十月、北家の藤原宗成が伊予親王に勧めて、「伊予親王が平城天皇を降ろして皇位を狙っている」との危険なうわさが流されたこがもとでで、同年十一月、親王と共に大和国城上郡川原寺に幽閉され飲食を断たれた。そして親王を廃された翌日の同年十一月十二日、悲哀と慟哭の母子は、衝撃のあまり毒薬を飲んで自害したのであった。時の人たちはこれを非常に哀れんだという。また、大納言雄友は伊予国に配流になった。

 この事件は、藤原式家の仲成が、北家の宗成を利用して平城天皇とその側近を押さえこみ、弟の皇太子「神野親王」(嵯峨天皇)に対する皇位継承を阻止する意図のもとに起こされた事件であったことが後に判明した。無実であった死後の親王と吉子の立場、および連座のとが咎を受けた兄の大納言藤原雄友の名誉と地位は回復された。
しかし、罠にはめられた被害者である南家にとっては内外にわたって衝撃が大きかった。

 この吉子の事件を契機に、南家は、武智麻呂、豊成、仲麻呂、乙麻呂、是公と、奈良の都平城京以来続いてきた藤原氏の主座を式家、そして後には北家に奪われて、公家から後退し武家に転向せざるを得ない原因にもなった。

 それはまた、荒削りで豪快な奈良時代の名残が薄れて、きら煌びやかで華やいだ公卿文化の平安京の時代の到来を告げる予兆でもあった。




         (南家)              吉子 「桓武帝夫人・伊予親王母」
       
武智麻呂---乙麻呂---是公---雄友---弟河---高扶--清夏---維幾---為憲---