伊東マンショ銅像〔都於郡城跡〕
|
<経歴>
誕生:永録12年(1569) 日向国伊東氏の本
城「都於郡城」に誕生。
幼名:虎千代 本名:祐益
父:伊東祐青(いとうすけきよ) 母:町ノ上(国主義祐四女)
敗戦:伊東氏、薩摩島津氏に敗れ日向国を失う。
国主義祐、父母、伯父祐兵等一族豊後の大友宗麟
を頼り逃れる
契機:キリシタン大名・親戚大友宗麟の勧めで入信。有馬の
セミナリオ入学
渡欧:●天正10年(1582)使節団、長崎を出港、マカオ着。
●天正11年(1583)インドのゴア到着
●天正12年(1584)喜望峰を回りポルトガル、リスボン
に到着 スペイン国王フェリペニ2世に謁見
●天正14年(1586)リスボン出港帰路
●天正16年(1588)マカオ到着
●天正18年(1590)長崎に到着。欧往復8年間
在欧2年間
●天正19年(1591)豊臣秀吉に謁見 秀吉マンショに
熱心に仕官を勧誘。マンショは巧妙に辞退する。
●慶長16年(1611)日向飫肥に帰郷
これ以前数度飫肥を訪問し多数受洗の足跡
●慶長17年(1612)長崎コレジオ教会において熱病の
ため死去。享年43才
●慶長18年(1613)キリシタン禁止令
|
日向・伊東氏本城 都於郡城<西都市>
伊東満所の霊碑
|
伊東マンショ直系子孫:伊東武正氏宅に
現存する「伊東家の幕紋規則」の古文書
貞享三年(1686)三月吉日 清書の日付
記載事項
<伊豆国>藤原氏・伊東
氏神:春日大明神
稲荷大明神
幕紋:庵内木瓜 併一文字
|
現代に甦る親善大使---伊東マンショ
|
伊東マンショは、天正10年(1582)「ローマ法王・遣欧天正少年使節」の正使となってヨーロッパに渡り、九州の三人のキリシタン大名---大友義鎮、有馬晴信、木村純忠の信心の書簡をローマ法王に奉呈しただけでなく、当時の日本国最高権力者(将軍)織田信長からローマ法王への贈物「安土城屏風絵図」を贈呈するなど、日本国とヨーロッパとの文明間交流の先駆者として歴史に大きな足跡を残した。また、帰国して後、マカオの修道院で研修を重ねイエズス会のキリスト教の宣教師、後には司祭となり、わが国でキリスト教の布教につとめ、合わせて数々の先進的な知識・文化を広めて大きな影響力と恩恵をもたらしたといわれる。
天正12年(1584)~天正14(1586)年まで約1年8ヶ月滞在した少年使節の活躍のことは、当時のヨーロッパ世界において一大旋風を巻き起こし、1585年までに48種類、その後10年間に90種類もの書物が発刊されたという。出版物で見る限り、かってこれ以上に有名になった日本人はいないと言われ、「日本国と日本人」という日本文明の存在をはじめて世界にアピールし、強く印象付けた事件として歴史上画期的な貢献であった。
そして、伊東マンショは、少年使節が出発して僅か4ヶ月後に本能寺で暗殺された信長に代わり、帰国を出迎えた禁教の主・太閤秀吉にもたいへん厚遇されまた大いなる親交を保った。
日南市の郷土史家の調査研究によると、日向伊東氏一族であったマンショによって飫肥藩にもたらされたキリスト教文化・西欧文化の影響は想像以上に大きかったと言う。
他方、平成17年、滋賀県安土町ではわが国において歴史上最高の名城といわれる安土城の史跡復興事業の一環として、「天正日本の親善大使」マンショ」によって、織田信長からローマ法王に贈呈した「安土城屏風絵図」を探すため、プロジェクトを結成し調査団を派遣。ローマ法王に面会し正式に調査をお願いしたところ「わかりました」と快く応諾されたことがマスコミで報道された。(下記の写真参照)
|
飫肥城と伊東マンショ 偽装の墓所と少年木像
高崎隆男氏(伊東マンショ研究会主宰 宮崎県日南市)
筆者は長年高崎氏と親交があり、ライフワークの特別な研究成果
の解説である当該サイトを、氏のご了解頂きリンク致しました。
<2007.6.16>
|
|