将軍源頼朝と工藤祐経


  祐経、鎌倉で頼朝に謁見  皇居・武者所を辞し鎌倉へ帰参 頼朝の側近・重臣に就任
  平家大将「重衡」 捕縛  頼朝、敵将を哀れみ、祐経を派遣し酒宴で重衡を慰める
  義経恋人・静 鎌倉護送  静、祐経の鼓に合わせ八幡宮で頼朝・政子の前で舞う
  祐経、頼朝に随伴し上洛  祐経、御所・内裏に参内、後鳥羽天皇・後白河上皇に拝賀
  祐経 左衛門尉など恩給  頼朝、祐経に日向国地頭ほか全国二十余ヶ所恩給
  曽我兄弟の仇討ち  頼朝の「富士裾野の巻き狩り」中政変、祐経暗殺される
  北条氏の出自の謎  北条時政、伊東家へ接近と 祐親・祐経抗争への介入
  曽我事件の背景と真相  頼朝・祐経と北条時政・政子親子との「幕府内の路線対立」
  東大寺落慶法要参詣  宇佐美祐茂等伊東一族、頼朝に随伴し東大寺供養会参詣



 <祐経、頼朝に初謁見>朝廷を辞し鎌倉へ帰参。茂光・祐茂の仲介で頼朝側近に就任


 工藤祐経(幼名金石)は、仁安元年(1166)15才になった時亡父工藤祐継(武者所)の遺言に基づいて、娘の万劫を添わせた義父で養父でもあった従兄弟の河津祐親(後日伊東改姓)に連れられて伊豆国から上洛し小松内府殿の館を訪ね平重盛に見参し家臣となった
 その後、祐親の伊東荘を中心とする活躍と勢力拡大は目覚しいものがあった。祐経と万劫を京の小松殿に預けて帰国後、直ちに工藤・伊東家惣領であった祐継の領地を横領し、京の中央政界隋一の実力者重盛に寄進して荘園としての認知を受けた。その重盛は、自分の権利は留保した上で更にこれを大宮(藤原多子・まさるこ 近衛天皇・二条天皇二代の皇后として有名 1149~1201 享年52才)に寄進したという。
 こうして祐親は、伊豆の伊東荘を平重盛と大宮の権勢門家の庇護のもとに置き、この権勢門家に一定額の上納を施すという、公家の官庁(朝廷)側との利権関係によって、伊東荘の大きな保護と安定化とを図ったのであった。

 一方、平重盛のもとで公武の仕事に励み、天下の政務にもなれた祐経は、文武に優れ頭角を顕し21才になった承安2年(1172)には皇居に参内、天皇の御所・清涼院(滝口)にあった武者所の職に就任し近侍した。
また、工藤氏の武者所への関わりは祖父の祐隆、父祐継、そして祐経と続き、皇室や御所との関係は密接に成立しており、工藤氏から伊東氏を称えるようになった鎌倉時代に入っても滝口に祗候していた。
このような「武家の藤原氏」の勇士の家門の出自であった祐経は、重盛の覚えもよく若くして武者所一臈(筆頭)、そして左衛門尉に昇任された。

 ところが、ある日、伊豆国・宇佐美に住んでいた実家の母から1通の手紙を受け取った。その中には、伊東荘の出来事などの便りと共に、父祐継が母に託した「伊東荘、宇佐美荘、河津荘の三つの領地を、祖父祐隆から父祐継に相続する譲り状や地券文書(権利書)」が同封されていた。祐経は、伊豆の伊東荘はじめ伊東家の領地は義父・舅で養父でもあった祐親の所有地とばかり思っていたので、その文書をみて驚き仰天した。

  祐親の押領と近年の威勢のよさを見かねた郷里の年老いた母親から事柄の真相を知らされた祐経は、 祐親に対して、日頃から恩義と信頼こそ感じても不信感を抱いてはいなかったので、はじめは苦悩で眠れぬ夜を過ごした。しかし、ことは伊東一族の嫡家・宗家の相続問題で重大事件であった。
 まもなく、伊豆の舅祐親のところに代官を遣って伊東荘の返還を頼んだが断られ、改めて再三迫ったが応じなかった。更に 祐親は、祐経に対し「娘婿として恩義のわからぬ奴」と怒りをあらわにした挙句、伊豆からの食料や仕送りを止めてしまった。その上で、こともあろうに祐経の妻となっていた娘の万劫を祐経から取り上げて、相模の土肥遠平に再嫁してしまったのである。伊豆国内外に聞こえた実力者となり、祐経の養父であり舅でもあった「後見人としての権勢」の意識とプライドがそうさせたのかもしれない。
 その結果、当時の祐経は、独身で生活に困窮したので、京の周囲の人からみても威勢の上がらない寂しい状況だったという。
 
 もはや、事態がこうなっては埒はあかないと覚悟を決めた祐経は、京の六波羅に訴訟を提起し、祐親も検非違使の別当から呼び出されて両者対決となった。しかし、結果は先祖(祖父)の決めた家督相続の定めに謀叛を興した 祐親に道理は無かったが、平家に領地を寄進して巧みにわが身の保身をはかった祐親が有利な判決を勝ち取った。この裁判は、伊東家の密接な近親者同士による「家督と領地」にかかる争いであったので、官庁でもいずれを甲乙とも決しがたく結局「御教書二通」を作成し、なお且つこの公文書に「後白河法皇の令旨(りょうじ)」を添えて祐親・祐経両人に賜ったのであった。すなわち、工藤家の本領は祐親の主張を取り入れて「祐経単独」の所有から「両人の所領」に裁定されたのである。
 このため、遂に円満解決の道を阻まれた無念の祐経は、小松殿はもとより後白河法皇まで煩わしての裁定でもあったので平家に対する期待はすっかり消失し、祐経自身の新たな覚悟を迫られる事態に至った。

 他方、世間においては、平家の政権に対する批判・怨嗟の声は騒然となり、遂に頼みの小松殿も死去したため、祐経の平家における近侍も極めて悩ましい状況になったのである。其処へ頼朝に敵対して戦った本国の入道祐親も富士川の合戦のため平家の陣に参軍の途上、頼朝軍の天野遠景に捕らえられたこと、そして三浦義澄に預けられた後、頼朝は祐親の罪を許したがそれを潔しとせず後自害し、本領伊東荘は、頼朝の手に落ちてしまったという情報がもたらされた。
 そこで祐経は、寿永1年(1182)頼朝の重臣の叔父狩野工藤茂光、弟の宇佐美三郎祐茂に付属して鎌倉に下り、両人の仲介により頼朝に初めて謁見した。祐経と会見し甚だ多くを語り合った頼朝は、祐経がすっかり気に入って喜び忽ち頼朝の側近として重臣の一人に列せられた。こうして、平家家臣の祐親に代わって惣領祐経を中心にした源氏家臣伊東一族の再結集は実現した。

 他方、頼朝弟義経は、元暦元年(1184)宇治川で源氏の木曾義仲を討ち、遂に平家追討のため京を進発した。 義経の二番目の兄で、平家追討使・源範頼(のりより)を大将とする五万騎の大手軍は、敵将平知盛軍五万騎と生田川に対峙し、義経の搦め手軍一万騎が三草に陣した。
 義経は、本隊・範頼軍の攻撃にあわせて、70騎を選りすぐり「ひよどり越えの逆さ落とし」の奇襲戦法を用いて平家の前進基地「一の谷城」を攻めて打ち破った。

 同じく元暦元(1184)年8月8日、工藤祐経は、源氏軍本体をなす範頼の大手軍の諸将の一人として伊東一族をひきつれて西海(瀬戸内海)に発進。平知盛軍との一の谷の戦いをへて、1185(元暦2年)正月26日には兵船82艘で豊後国へ渡海し壇ノ浦の決戦に臨んだ。壇ノ浦戦いは、源平それぞれの水軍の戦力の戦いであったが、一の谷の合戦同様、範頼の大手軍の圧倒的な圧力のもと平家水軍の寝返りがあり、また、義経の「戦艦の漕ぎ手を集中的に撃つ奇襲作戦」によって圧勝し平家の栄華は壇ノ浦に沈んだ。

 そして、同年3月11日、頼朝は範頼と工藤祐経など十二人の諸将に慇懃な手紙を送り、天下を揺るがした源平の合戦の戦果を称え、苦労をねぎらった。



 <平家大将「重衡」 捕縛>頼朝、祐経に命じ重衡を酒宴で慰安


 
平重衡。平清盛の五男で重盛の弟。安徳天皇の母徳子の兄弟。平家一門の中でも「武勇の誉れ高き美男の大将」として知られた。近衛中将。本三位中将。
 治承四(1180)年、宇治川の戦いで以仁王や源頼政を敗死させた後、同年12月、重衡は兄の知盛と叔父の忠度を伴って奈良の東大寺、興福寺等の反平家勢力の攻撃に向かった。両寺院の僧兵7000人にものぼり、奈良坂や般若寺を砦として死守したためその攻略は困難を極めた。終に、重衡は仕方なく奈良坂に火を放った。ところがまもなく風向きは急に変化して奈良一帯は大火となり、東大寺大仏殿まで焼け落ちた。平家はこれにより両寺院を押さえ込むことができたが、畏れるべきは聖武天皇以来護られてきた金銅製の大仏の首も焼け落ちたことだった。重衡は「しまった」と思ったがもう後の祭りだった。平家の不運は急速に走り出した。

 翌1181年(養和元年)父平清盛は死んだ。重衡は、1183年(永寿2年)木曾義仲と備中水島で大激戦を行った。しかし、その後の義経との一の谷の合戦で梶原景時の手のものに馬を射られて捕らわれてしまった。義経は重衡を京都に送り土肥実平に預けた。やがて平家は壇ノ浦に滅んだ。

 重衡は鎌倉に護送され、祐経の従兄弟で、伊東一族の狩野茂光の嫡子狩野宗茂に預けられ、その後頼朝と対面した。頼朝は、武勇の誉れ高い敵将平重衡を鄭重に扱い座席も対等に与えた。
そして、1184年(元暦元年)4月20日、終日雨が降っていた。頼朝は重衡に沐浴を許した後、工藤祐経、藤判官邦通、官女千手前の三人を重衡のもとに派遣し、酒(竹葉)と肴(上林己下)を届けさせ酒宴を設けた。
 有情の美男と言われた重衡は、殊のほか喜び遊興の時を惜しんだ。 祐経は鼓を打ち今様を歌った。千手前は琵琶を弾き、重衡は横笛で五常楽、皇じょう急を吹き、夜半には四面楚歌を朗詠した。

 頼朝は、帰参した3人に重衡の様子を詳しく聞き、「自分は世間の風評を憚って同席しなかったが…」と神妙な感慨であった。そして頼朝は重衡に重ねて細かい配慮を示し、祐経には女官千手前を重衡が鎌倉にいる間は側に留め置くように指示した。祐経は、京の皇居武者所に仕え、小松内府平重盛の所で重衡を見てきたので、その旧好が思われてこの夜の重衡に憐憫の情ひとしおであった。

 頼朝が、温情をもって「勝敗は時の運、お気の向くよう致したいがご所存は?」の問いに重衡は答えた。「奈良の法師どもが極悪人として身柄を欲している由、私をお構いなくお渡し下さい」。すでに覚悟の返事であったので、頼朝は重衡をやむなく奈良の法師たちに渡した。
 風向きの変化で思い掛けず東大寺焼失の大罪を招いてしまった悲運の平重衡はこの年、6月20日木津川のほとりで刑死した。


 
<義経恋人・白拍子「静」 >祐経の鼓に合わせ八幡宮の頼朝・政子の前で舞う

 後白河法王は源氏と平家をけん制し、特に源氏の頼朝、義仲、義経を競わせて相互の猜疑心を煽り源氏の仲違いをさせていった。
 義経はその策略にかかり頼朝の許可なしに「検非遺使、左衛門尉」という官職を受け、従四位・伊予守となった。これは頼朝の怒りに触れ、鎌倉入りを望む義経は腰越で足止めを食い拒まれた。頼朝の追及を恐れた義経は九州に逃れようとして大物の浦で待っていた臼杵の船は嵐にあい沈んでしまった。また大勢の部下や伴の者はバラバラになった。

 その後、いったん吉野山に隠れた。しかし、そこも追及の勢力が伸びてきて奥州へ逃れたものの、頼みの藤原秀衡が急死し義経の運命は暗転し、その秀衡の子息たちにも襲撃され行き場を失った。そした、22歳で日本史に彗星のごとく現れて8年余。悲運の英雄・義経はとうとう衣川で31歳の短い流れ星となって消えたのであった。

  奈良の吉野山の山中で、別離を拒む恋人静御前は、義経に京都の母磯御前の所に身を寄せるように繰返し諭されてようやく別れた。山中を放浪していると一人の僧侶に怪しまれ、京都にいた北条時政の所に引き出された。静と磯御前は、義経の行先について執拗な厳しい訊問を受けた後、鎌倉の頼朝のもとに護送されていった。
 文治2年4月8日、頼朝・政子夫妻は、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣。ついでに静御前を回廊舞殿に召し出し、強く拒む静に向かって再三京の白拍子の舞を懇望し見物した。それというのも、静御前の舞は、京において「神をも魅了する美しい舞」として有名だったからである。

義経の恋人・佳人静は、一の舞として家の芸である「倭舞」を舞い、続けてニの舞として

       
「よしの山 みねの白雪踏み分けて いりにし人のあとぞ恋しき」
          「しつやしつ しつのおたまきくりかえし 昔をいまになすよしもかな」

と吟じつつ、義経への思いを込めた華麗にして狂わしい恋心の今様を演じた。このとき静に合わせて工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が同拍子を奏でた。
 祐経は、歴代勇士の家に生まれ武門の跡を継いできたが、また京の皇居・大宮御所に仕えて武者所一臈(長官)の職を歴任し、自ら京文化・歌吹の曲にも携わり来たためこのような役もできたのであろう。
はじめ、頼朝は「八幡宮の宝前は本来関東・源氏の繁栄を祝うべきところだ、反逆の義経を慕う別れの曲歌を舞うとは奇怪なり」と激怒し出したが、政子が「君が先に石橋山に戦い、私が伊豆の山で身を焦がして君を待っていたときも、今日の静と同じ心境でしたよ」と強く諭したので、頼朝は憤りを収め静を許したのであった。


 
<祐経、頼朝に随伴上洛>頼朝に随伴し皇居参内、後鳥羽天皇・後白河法皇に拝賀

<一回目>建久元年11月7日 午前に雨。午後一時晴れ、風強し。頼朝入洛。
後白河法王も密かに御車でご観覧。先陣が京に入って三条の末を西へ、そして河原を南下して六波羅に至った。先陣は畠山次郎重忠。約180人の随兵。次に頼朝御馬。工藤左衛門尉祐経はその直後を水干狩衣の隊の後詰で同行。さらに多数の随兵が列をなす。祐経弟伊東家光、嫡男伊東祐時等一族随伴。建久元年11月9日 曇。頼朝、院・内裏に参上。
勅許により直衣装束が許された。直衣、網代車で六波羅を出発して仙洞に御参り。行列は、三浦義澄など随兵三騎、頼朝御車に小山五郎など三人の随兵。工藤左衛門尉祐経など布衣の侍六人。次に随兵七騎。
<二回目>建久元年12月1日 晴。院宣により右大将御拝賀。仙洞御所御参。頼朝御車、近衛兵五人の後、工藤左衛門尉祐経布衣の侍の一人で随伴。


 
<頼朝、祐経に恩給 >左衛門尉・日向国地頭等全国二十余ヶ所恩給

 工藤祐経は藤原南家の出であり、15歳から京にのぼって小松殿内大臣平重盛に仕えて武者所の長官も歴任した。
 祐経は、京で身につけた文化的教養と実務の才能、朝廷の故実に通じていたこと、人脈の深さなどによって、瞬く間に頼朝の御家人中第一の寵臣になった。幕府を開いたばかりの天下人頼朝にとって、騎馬と武芸だけの粗野な関東武士ばかりであった他の御家人たちとは違って、文武両道の得難い能力をもった人材であったので、鎌倉幕府の政権中枢において頼朝側近・重臣として寵愛された。
 このような深い信頼関係の進行に従って、頼朝は、祐経に日向国地頭職のほか全国一箇所づつと、本領伊東荘を含め全国20余ヶ国に荘園を与えた。このような将軍頼朝の祐経への信頼と肩入れが、他の御家人には激しい嫉妬を生み怨嗟の目で見られて、建久六年周囲に曽我兄弟の仇討ちに同情の追い風が立つ中で祐経が暗殺されるという、歴史的な大事件が発生したのであった。

 その後、頼朝は御小姓を勤めた祐時元服時の烏帽子親でもあったので、父祐経が暗殺された後その遺産を嫡男祐時に譲り与え名前を工藤姓に替えて「伊東左衛門尉三郎祐時」とし「従五位下大和守」任じた。
そして新たな家紋「月星九曜」を与えたが、この家紋は伊東家の家伝によると、頼朝が千葉介常重に命じて譲渡証を残して祐経(後に祐時)に与えたものという。


 <曽我兄弟の仇討ち>頼朝が、富士のすそ野で巻き狩り中祐経暗殺。

 総領工藤祐経は、平治ニ年(1160)、祐経の家督相続を定めた先祖の遺言を覆した従兄弟の祐親の裏切りにあって、本領伊東荘を押領され、その上、承安三年(1173)祐親と結託した京の平家による六波羅裁判における和解の裁定にも期待は裏切られた。さらに、祐親には愛妻の万劫まで奪われ、揚句には伊豆からの仕送りの生活の糧も絶たれた。祐経はここに至って、非道の祐親に対して尋常な精神を保てるはずはなかった。
 祐経は、世間から怨嗟の的になった平家政治とその先行きに失望していたので、密かに伊豆に下り旧臣を招いて事情を話した。そして、「異常な執着心を以って、宗家の遺言を勝手に悪用し本領伊東荘を押領。それのみか数々の強欲非道な振舞いは偲びがたく、この上は祐親を討ち取り無念を晴らしたい」と諮った。

 安元ニ年(1176)10月、祐経の家臣、大見小藤太と八幡三郎兄弟は、大場平太影信が、頼朝の守護役・伊東祐親の館で三日三晩開催した、頼朝を囲む関東武士の宴会と狩の酒宴の帰り際、館を出てきたところで矢を放った。しかし、大見のその矢は祐親には当たらず、不運にも八幡の矢で祐親嫡子、河津三郎祐通が射落されて死んだ。この河津三郎こと伊東祐通こそ曽我兄弟の父であった。
 伊東荘をめぐる祐経・ 祐親の従兄弟同志の宗家争いがもとで放たれた矢によって、不幸にも 祐親嫡子の祐通を死なせてしまったことが、曽我兄弟の父の仇討ちの直接原因となった。

 誤って殺された河津三郎祐通には、三人の子があった。長子は女子で、長男は一萬丸五才(後の十郎祐成)、二男は筥王丸三才(後の五郎時致)で、再婚した母の夫、工藤・伊東一族の曽我祐信に養育され、兄一萬丸は十五歳で元服、弟筥王丸は13歳まで箱根の別当行実の弟子として育てられ、十七歳のとき北条時政が烏帽子親となって元服した。

 兄弟は、頼朝のお気に入りの大名になった祐経に近づいて下調べをしたり、祐経の生命を狙おうとしたがうまく果たせなかった。 しかし、建久4年5月28日、頼朝が富士の裾野で諸将と数万人の兵を集めて催した巻狩り中の仮屋で、雨の闇夜の中を祐経の宿所に討ち入った。酒宴で前後不覚に寝込んでいた祐経は仇討ちとして暗殺された。兄の祐成は先に討ち取られたが、弟の時致は、祐経暗殺後に頼朝の宿所をも襲いその後数人に取り押さえられた。

 頼朝は祐親孫の祐致を訊問しその心根と勇気に感銘し涙を流した。召抱えようとも考えたが、暗殺された祐経嫡男犬房丸九歳(伊東左衛門尉祐時)が仇として頻りに願い出たため祐時により富士野の松ヶ崎で首が落とされた。

 曽我物語は日本文学に名を成し、また能・歌舞伎の花形となった。三大仇討ちのひとつ。一富士(曽我兄弟の孝行)、二鷹(赤穂浪士の忠義)、三茄子(荒木又衛門伊賀越え・義)


 
<北条氏の出自の謎>伊東家への接近と 祐親・祐経抗争への介入

 「北条氏」は、平氏で、伊豆国の在庁官人であった言われてきた。しかし、北条氏が「平姓」を名乗るようになったのは、専ら政子の強い希望であったという。

 北条氏は、領地が田方郡北条荘であったが、ここは歴史的に藤原南家の人々の集結地で、その対向地の「南条氏」も藤原南家の人であた。しかも、北条氏は、政子によって将軍頼朝の舅になるまでは、伊豆国の大豪族 伊東祐親にくらべ勢力の小さい小領主で、治承五年の史料では被官もなかったとされる。

 伊東氏は、 祐親・祐経の祖父狩野祐隆(家継)の室は、源佐渡七郎重高の娘であったので源氏家臣として重く用いられてきたが、一方で、伊東氏大系図によると、先祖工藤為憲の母は平貞盛の姉(高望王の王女)であったので、伊東氏は遠くの日から平氏・平姓との縁戚で、つながりが深かった。また、北条氏は平直方より五代の後胤が時政される以外はっきりした家系図がないと言われ、北条氏の祖である北条時方は、熱海の和田に住して「和田四郎大夫」と名乗っている。後年、その熱海は伊東氏の領有する「楠美荘」の一部である。北条氏は、伊東氏ともっと深い過去のつながりを暗示しているという。

 更に、ここに、「信州宮所文書」という一つの興味深い文書がある。頼朝が諏訪明神に参詣し平出、宮所ニ村の領地を寄進したおり、「頼朝公に御供仕り候は、長史三十郎・孫一の両名にて伊豆国伊藤出生の者」と記録されている、という。 これは、何を意味するか。北条氏は専ら平姓の人で、伊豆国の在庁官人とされてきた。ところが、伊東荘の人であったとは書かれて来なかった。ところが、伊東氏は、先祖が伊豆守、駿河守、遠江権守などを歴任し、狩野茂光は 在庁官人を兼ねており、祐親の40年以前から伊豆国の検断権をも有していた。この「信州宮所文書」に伊東荘の者が「長史」であったという事実は、北条一族は実は平姓の出自ではなくやはり南家伊東氏と同族で、伊東荘の別所者だったことを証明しているという。(歴史読本昭和45年11月P139)

 曽我事件は、伊豆国・伊東荘の領地と伊東氏と北条氏の深い関係において発生している。そこで、今一度、伊東氏と北条氏との隠された関係について検索して見よう。
 北条政子は、源頼朝の妻となり、やがて御台所・政子となって、その子頼家、実朝の死後は摂家将軍を補佐して尼将軍と言われた。政子は、父親が北条時政であることはよく知られているが、その母親が誰であるかはあまり書かれておらず知られてもいない。しかし、伊東氏の歴史を語る上でそれに触れることは大いに有意義と思われる。

 伊東七郎氏の「曽我兄弟仇討ちの機縁」に示された伊東家(工藤家)の三六姻戚系図がある。それにによると、当時伊豆半島最大の有力豪族で荘園領主であった藤原南家伊東(河津)祐親は、伊豆、相模などの巨大な武力、権力を所有したほかの伊豆、相模などの豪族との間で、積極的に姻戚関係を形成していたことが窺える。それはまた、この地における大豪族、南家伊東氏の実力の大きさを示していた。

 伊東祐親は、初めの二人が男子、その後、女子ばかり六人の合せて八人の子があった。二女は三浦義澄の妻、三女は、「万劫」ではじめ祐経妻で後土肥遠平妻、四女は、「八重姫」で源頼朝の最初の妻(再嫁・ニ代執権北条義時正室)、五女は岡崎義実の妻、末娘は波多野能常の妻、そして残りの長女は北条時政の妻すなわち北条政子の母親であった。
 この系図からわかることは、政子の母は伊東祐親の娘であり、祐親は北条時政の舅であり、政子の祖父でもあった。そして政子は かわいい外孫として祐親に大いにかわいがられて育てられたことが想像される。そのようなやさしい大事な祖父 祐親を政子も忘れなかったであろう。

 このように、北条時政が伊東荘の出自の人であり、政子が伊東祐親の孫であったこと、やがて北条義時の室は、頼朝とは悲恋に終わった 祐親の娘八重姫であったという史実は、「東鑑」には残されていない北条執権の特別な考慮と推察され、日本史における伊東氏と北条執権誕生のただならぬ関係を感じさせて興味深い。


 <曽我事件の背景と真相>頼朝・祐経と時政・政子親子の路線対立

 いつの時代も、歴史の真実は、しばしば勝者側によって都合のよい様に書きかえられ、色鮮やかに着色され、あるいは不都合なところはぼかされる。勝者の残した歴史は、ほとんどすべて勝者が正しくて勝って当然、敗者は悪で負けて当たり前にされてしまう。その視点で見るとき、北条氏が残した鎌倉幕府の正史とされる「東鑑」も、例外とはなりえず、当時の幕府内部の真相、特に北条執権誕生に至る真相は隠されたままと考えねばならない。

 曽我事件は、後年、曽我兄弟による単純な仇討ち事件ではなかったとされる。それは祐経が頼朝側近となって約10年後に起きた、北条執権誕生につながる北条氏によるクーデター路線のはじまり、第一号事件であったことが、今日広く語られるところとなった。すなわち、曽我兄弟の仇討ちを計画的に利用した、北条氏による将軍頼朝と側近で実力者の工藤祐経の暗殺事件であったというのである。いわゆる源氏頼朝政権転覆のクーデターである。

 そこには、一つには源平の合戦以前からの狩野荘、楠美荘、伊東荘まど伊豆国の圧倒的な範囲を占める伊東家領地の支配権をめぐる 祐経・ 祐親の深刻な抗争があり、他の一つは、京の朝廷に対する外交リーダーシップを軸とする路線対立があった。

 祐経は20年間も皇居に勤めていた朝廷の役人・武者所一臈・左衛門尉としての経歴を持ち、鎌倉新政権の中にあっても朝廷からパイプ役とされた。幕府の政権運営の中で京の中央政界との交渉・付き合い方に弱点を持っていた鎌倉新政権の頼朝は、祐経の情報、人脈、実力を専ら頼りにし、側近として信頼し積極的に活用したのだった。

 源為義の時代には副将軍といわれた武蔵国工藤の武藤頼氏を出すなど歴代源氏の家臣であった武家の藤原氏。その宗家・工藤祐経が、京から帰還し伊豆国伊東家の総領として支配する一方、祐経は、頼朝側近としても日の出る勢いであったので、当然、幕府開府期前後の10年間の頼朝周辺の政治は、専ら頼朝と祐経を中心とした新政権の観を呈していた。

 そこへ、頼朝から歴代源氏の家臣の家として祐経はじめ伊東家一族への恩給は続いた。祐経は左衛門尉のあと左衛門少尉、日向国地頭、伊東氏本貫地伊東荘のほか全国に一ヶ所づづとやがて二十数ヶ所の領地に及んだ。

 ところが、治承四年(1180)、頼朝が源平の合戦を旗揚げする以前は、伊東荘などの歴代伊東氏の領地と伊豆国の支配権は、伊豆国随一の豪族であった伊東入道 祐親の元にあった。その祐親の支配力は、伊東荘など楠美荘を京の平家に寄進しての、領家と宮家の権勢を取り込んだ支配力であった。

 祐親は、何らかの理由、おそらくその一つには、祐親が、宗家祐経の楠美荘を横領し、その問題の伊東荘など楠美荘を京の平家に寄進して登記し正式の寄進地荘園とすることで、平家の強い庇護を受けるようになった際、伊豆の在庁官人の立場にあり京の朝廷官僚との交渉や事務手続き面で経験があった時政が、祐親を支援して協力関係ができ、祐親、時政双方が平家から認知され、強い結合ができあがったこと。そのニつは、祐経と祐親の間で京の六波羅裁判に出廷して「伊東荘の所有権」を争った訴訟事件対策における協力関係で北条氏に好を通じ、長女の頼もしい娘婿として北条氏を選んで姻戚を形成した。北条氏は、その祐親の娘婿として伊東家に近づき、祐親が京に3年間の大番の勤めに出て不在の時も伊東荘に出入りして祐親の弟分として振る舞い 、祐親を支援しいた様子が窺える。このように、伊豆国と伊東荘は、豪族祐親と祐親を後ろから支援していた北条時政の支配体制の中にあった。

 しかし、いまや祐親は、娘八重姫と頼朝の結婚の中を割いて一子千鶴丸の命を奪い、石橋山の合戦では平家の将として頼朝を攻め、富士川の合戦で義経軍に捕らえられ、伊豆に戻って頼朝に許されたが後、それを潔しとせず自殺した。ここに、「平家家臣」となっていた伊東氏は滅び、その伊東荘などの伊東家の領地は一旦頼朝の手に帰した後、再度、頼朝によって歴代の「源氏家臣」伊東宗家・祐経の所領として返還されていた。

 また、頼朝と戦って捕らわれ遂に自害した伊東祐親と北条時政とは、共に平家家臣として姻戚関係で強く結ばれ、数十年にわたり伊豆国で苦労と成功を共に味わってきた兄弟のような親密な関係にあった。
 娘政子が頼朝に走り、やむなく頼朝の舅として頼朝に味方して源氏の鎌倉幕府を開いてからも、伊豆国のそれまでの良き時代を時政・政子は片時も忘れることはなかった。
 まして、将軍とはいっても、頼朝は、平家時代の伊東祐親と北条時政の支配する伊東荘に、当時14才の少年の身で流人として預けられ、 祐親と時政は、守護・監視役として約20年間も一緒に世話をして生活してきた間柄であった。時政・政子親子には、頼朝に対して他人が畏れたり恐縮するような気持ちは少しも無かったのである。

 このように、鎌倉幕府成立前後の10年間は、政子を通じて頼朝の舅となった北条時政にとっては、その活躍と苦労に比べ、あまり気分のすぐれた時節ではなかった。何故なら、いまや頼朝に実力側近として常に付き従い、ますます影響力を高める工藤祐経の輝きの増大を傍らに見ながら、 かって祐親と利害関係を一にして、家族同然であった時政は心中穏やかではおられなかったのであった。

 このような鎌倉幕府の内情を背景にして、曽我兄弟事件は起こった。しかも富士の裾野で展開された幕府の公式の軍事演習(巻き狩り)の後の、酒宴の夜に頼朝と祐経の宿舎が共に襲われ、祐経は暗殺され、幸いに頼朝は運良く助かった。この夜襲は、周到に計画され幕府内に強力な支援者いなければ成功できない事件であったという。
 今は亡き祐親への思いと頼朝・祐経を憎悪する時政の強い危機意識が、巧妙な曽我事件を周到に計画させ、鎌倉幕府の実力者祐経を除き去る暗殺を首尾良く実現させたのであろう。

 この曽我事件を契機に、それまでの鎌倉幕府の空気、流れは一変した。祐経に代わり主役となった時政の権勢が前面に出るようになり、やがて相模川橋完成祝い帰り時の頼朝の落馬による変死、北条氏による鎌倉御家人たちの連続的な討伐が発生するのである。したがって、近年の歴史研究者は、曽我兄弟を利用した仇討ち事件は、政治的には北条執権の誕生につながる平姓北条氏による、頼朝・側近祐経中心の源氏政権の打倒、反革命・クーデターであったとみることができるという。。

  このような推察と研究成果に従えば、祐親によって引き起こされた伊豆国の「伊東氏の宗家の権利と領地を巡る家督紛争」の被害者であり、且つ「曽我事件」でも仇討ちされ被害者でもあった祐経を、逆に専ら加害者・悪役として取り扱った北条執権の歴史とは異なり、「源氏の革命政権」ではじまった鎌倉幕府は、この祐経暗殺で頼朝を守護する「強力な防波堤」を失い、頼朝変死を契機に大きく変化し、源氏の鎌倉幕府とは名ばかりの「時政・政子による北条政権」に変質していった、と見ることができよう。


 <東大寺落慶法要>宇佐美祐茂ほか伊東一族、頼朝に随伴し大仏殿大法会に参詣

 建久六年(1195)3月10日将軍頼朝、東大寺供養のため上洛。同3月11日、将軍家東大寺に落慶供養のため馬千頭を施入。奉加は八木一万石、黄金1千両、上絹1千疋。
 建久6年3月12日 東大寺落慶供養。朝より雨が頻りに降る。地震あり。午前4時には和田義盛、梶原景時など数万騎の将兵で東大寺四方を警護。日の出とともに御車で将軍源頼朝公と御台所政子一行は、晴れて見事に再建なった東大寺大仏殿の落慶供養のために東大寺に参詣した。

 東大寺の大伽藍は、源平の合戦の過程の治承四年(1180)平重衡の軍勢が放った南都の兵火が、思い掛けず風に煽られて広がり焼き討ちに遇った。その復興は翌年には早くも着手され、源頼朝の絶大な支援のもと「大勧進」俊乗房重源上人を中心に進められた。5年後の文治元年(1185)には後白河法王を導師として「大仏開眼供養」が行われ、更に十年後の建久6年(1195)には後鳥羽上皇や源頼朝の臨席のもとに「大仏殿落慶供養」が盛大にとり行はれた。実に約十五年の歳月をかけて東大寺の再建が実現したのであった。

 法要の当日は、朝から雨模様で昼頃からはしきりに降った。また地震もあった。東大寺の境内と門外などは、将軍頼朝が鎌倉から引き連れてきた数万騎の将兵が取り囲み警護していたので、法会は一層厳粛に執り行われた。将軍源頼朝・政子一行に御伴した和田義盛、畠山重忠、梶原景時など主だった御家人・家子郎等の随兵の中には、頼朝が最も信頼していた側近で重臣の工藤祐経の姿は無かった。しかし、祐経に代わり祐経弟の宇佐美祐茂を中心に、宗家の家督を継いだ祐経嫡男で当時11才の伊東(工藤)三郎祐時,、工藤小次郎行光(狩野茂光二男)、工藤三郎祐光(宇佐美祐茂三男)など多くの工藤・伊東一族が同行していた。

 二年前の建久四年、
頼朝は有能な側近の祐経を思いがけない暗殺というj事件によって失った後、なお頼朝の身辺には容易ならざる不穏な動きがあったので、祐経弟の宇佐美祐茂を伊豆・宇佐美から召しだして祐経に代わる側近にしていた。祐茂は有能で甚だ頼朝の信任厚く、後に右衛門尉そして左衛門尉に任官されていた。

 また頼朝は、鎌倉から同伴した御台所(政子)はじめ女房ら一行には、法要の間、大仏殿前の小高い「五百立山」に桟敷を設けて臨席させ、歴史的な東大寺大仏殿の落慶大法会を見物させた。




<参考文献>
①伊東秀郎氏 「曽我兄弟仇討ちの機縁」(日本文学研究大成)
②宮崎県史叢書 「日向記」(宮崎県史刊行会)
③全訳吾妻鏡(新人物往来社)
④源平の興亡(学習研究社)
⑤山本武夫「新研究日本史」(旺文社)
⑥永積安明「保元物語・平治物語」(角川書店)
⑦日向国盗り物語(石川恒太郎 学陽書房 1975)
⑧東鏡(吉川弘文堂 東大寺
図書館





伊東家の歴史館
http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/
All contents copyrights (C) 2003-2008 Genshiro/Noboru Itoh