伊豆国と伊東氏の発祥


 <南家の一大拠点> 遠江・駿河・伊豆と伊東(工藤)一族
 <移住地の条件> 伊東氏の家業(木工介)と狩野荘(院領)
 <狩野氏を名乗る> 狩野荘の発展と圧倒的な豪族「狩野氏」
 <私領・楠美荘> 伊東郷・宇佐美郷・河津郷の荘園化
 <曽我事件の原因> 「伊東荘」をめぐる伊東一家の家督紛争
 <頼朝伊豆国配流> 流人・頼朝を預かった伊東氏「伊東荘
 <源平合戦の勃発> 伊東一家 は平家と源氏に分れて参戦



         <南家の一大拠点>遠江・駿河・伊豆と伊東(工藤)一族


 
武将の初となった工藤為憲の子孫は、遠江・駿河・伊豆の三ヶ国にまたがり繁衍して行った。この地には、ほかの姓氏に属するものもいたがその数は南家には到底及ばなかった。 この頃、すでに京の中央政界は藤原道長、頼通にはじまる摂関政治の北家一族の勢力伸長によって固められ、東国武士団の成長と荘園整理令の発動、上皇による院政の開始等の変化が起きて、朝廷要職に南家の出身の者が入り込む余地はなかった。このため為憲の父維幾は、常陸介に任ぜられたが京の都には帰らず地方長官に甘んじたように、院政の強化と共に「地方の時代」の傾向が強まり、国司や押領使の任期をおえてもこれらの地に土着することが彼らの誇りと欲望を満足させる道だった。 この南家の大族の流れからは、後に工藤、伊東、曽我、天野、相良、吉川(きっかわ)、入江、岡部、二階堂、内田等は発展し、徳川時代には大名として栄えたものも数多くあった。

 伊豆国・「伊東氏」が発祥したもともとの原因は、伊東氏元祖工藤為憲である。為憲は平将門の乱を鎮定した功績により従五位下・宮内省の木工寮次官「木工介」に就任した。 そして伊豆・駿河・甲斐・遠江権守に任ぜられた。功績の大きさに比べ祖父や父にも及ばない地位であったが、国司の父維幾が将門の乱の発生を抑止できなかった不名誉の悪影響は拭えなかったであろう。
しかし、「木工介」は皇室・宮殿の造営・修理・用材の確保などを職掌とした要職であった。



         <移住地の条件>伊東氏の家業(木工介)と狩野荘(院領)
 

 
伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇期に成立し、十二世紀の鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げたとされる。
 伊東氏は為憲五代孫の維職の代になって京から下向し伊豆国の狩野荘に移り住んだ。この時、行動を共にしていたと思われる維職の子維次は、初めて狩野を名乗り「狩野九郎」と称されている。
伊豆国は天武天皇(681)7月に駿河国の東部二つの郡を割いて成立し、天城山をはじめ多くの山に囲まれた山国であった。当時狩野荘は後白河院の御領地で、後に蓮華王院領となった。おそらく為憲の三代孫維永(宮藤太夫)の頃からその子四代維景(駿河守)にかけて、国衙の在庁官人を兼ね、この蓮華王院を本所として狩野荘に所職を持ち、院の受領層として同荘に居住し、やがて伊東七郷(伊東荘前身)にもつながりを強めたと見られるという。
 
 駿河守・伊豆国押領使であった維景の子維職とその子維次が、初め狩野の土地を選択した大きな理由の一つは、田地の開拓が進み牧場が盛んですこぶる豊かな土地である共に、海運に恵まれ材木の調達が盛んにできたからだったという。 
特に、材木は造船用に珍重され、古く日本書紀にも応神天皇五年に伊豆国天城山狩野村から船の用材を出している記録が見られるという。

 後に、伊東家は源家将軍頼朝(鎌倉幕府)から伊豆国・伊東荘のほか日向国など全国に二十八ヶ所の領地を恩給されるが、日向・飫肥の木材は、日向灘に面し特に質が優れ幕府御用立てとなった。
 また、戦国期に至る飫肥城を巡る「伊東・島津90年戦争」に見られる伊東家の飫肥への異常な執念。戦国末期、いったん島津氏に日向国を追われた伊東祐岳は、京・大阪に逃れ秀吉に接近して数々の武勇・軍功を挙げて後、秀吉の「九州征伐」を導きこれを案内し、強大化した島津氏から日向国奪還とお家再興を図る難題を、武士道の驚異的な使命感と奇跡的な歴史の波動を利用して実現した。その気宇・気概は、敵将島津義弘をして驚愕し、敬服させる事件であった。この時、秀吉からの数多くの領地の恩賞の打診に対して、大局を睨んで大欲を求めず、ただ飫肥(飫肥城)一点のみに執心し申し出て「飫肥藩」が発足したことはその特異性によって語り草となっている。これらのことも平安時代の工藤為憲にはじまる伊東家の伝統、歴史的な神聖な家業(木工介)に対する特別な思いと密接に関係していると考えればその謎が解けるように思われる。


        <狩野氏を名乗る>狩野荘の発展と圧倒的な豪族「狩野氏」 

 
天城山をはじめとする伊豆半島の山岳地帯が大半を占める伊豆国では、僅かに三島から南方に展開する「田方郡」だけが水田地帯。そのため、ほとんどの武士団が「田方郡に集中し、比較的小規模の一荘一郷を突き合わせて隣接しひしめき合っていた。従って、武士団同志の利害は相互に大いに先鋭化し常に緊張をはらんでいた。
 「豆州志稿」によれば、駿河守であった維景は最初狩野荘日向堀内に来往したが、日向は地形が平坦で要害が少なかったので、南下した本柿木村に自然の要害「狩野城」を築城したという。
 駿河守・伊豆国押領使であった維景の子維職は、高い兵員動員能力があり、強い支配力と経営力を持っていて伊豆国近隣国を圧するほどのものだったと言われ、子孫は遠江、駿河の各地の郷に住み一大豪族を形成していった。また、維職は初めて将来の伊東郷の発展と重要性を睨んで「伊藤氏」を名乗ったという。この伊豆国に入国した当初は、まだ、伊東郷はあっても「伊東荘」は存在しなかったので、「伊東氏」の姓が「伊東荘」の荘園としての確立以後の呼名であると考えれば、藤原氏である維職は、大方、京から下向した「伊豆国の藤原氏」である「伊藤氏」として自称したり、他称されたりしたのではないかと容易に考えられる。今日一般に、伊東氏は伊豆国の藤原氏で「藤原為憲流」、伊藤氏は伊勢国の藤原氏「藤原秀郷流」、と短絡的に片付けた記録や誤解が見られるが、藤原南家と伊豆国との古くからの関わりの中で、「木工介の藤原氏」である「工藤氏」のほか、「伊豆国の藤原氏」を主張した「伊藤氏」の姓が「伊東荘」の成立以前から多く使用されたのであろう。(日向記、南家伊東氏藤原姓大系図)
 「尊卑分脈」「源平盛衰記」等によると、伊東郷の「伊東荘」への発展を進めた維職の子工藤祐隆(家継・家次)は工藤氏のほか初めて「伊東氏」を名乗り、「伊東祐○」と表す「祐」の通字の元祖であった。この頃から伊東氏が自ら,あるいは他者から「伊東」と「伊藤」を併用ないし混用していた記録の事例が数多く見られる。
従って、「伊東氏」であって「伊藤氏」と表した系譜は予想以上に多いと考えねばならない。

 ほかにも「狩野四郎太夫祐隆」とも名乗った。狩野荘を職として領有したうえで、東海岸の宇佐美、伊東へ進出、更に西海岸の河津へも勢力を拡張して、伊豆国での狩野一族の支配権を確立していたことが窺える。
 しかし、狩野川は「魔の狩野川」とも言われて一旦大雨に見舞われると猛烈に荒れ狂い、川の流れが変わってしまい土地の境問題で紛争の原因を作ったという。

 後に、祐隆(家継・家次)は、狩野荘と狩野氏の家督を嫡子茂光に譲り、自らは東海岸の伊東へ引退した。私領の宇佐美・伊東・河津をほかの庶子に分割相続したようである。保元の乱において、茂光が「工藤介(狩野介)として見えるが、狩野一族の代表者・惣領は茂光で庶子は皆彼に従っていた。
 祐隆の妻は、源氏の源佐渡七郎重高の娘で多くの男子をもうけたが、幾人も病気で先に世を去り長子祐家と茂光が残り、ほかに妻の死後生れた異腹(後妻)の子祐継がいた。
 嫡子祐家は、病弱で、後に幼児の祐親を残して早世するが、これに比べ茂光は頑健で、威風堂々たる巨漢であったという。工藤・狩野家の統領として祐隆の期待と信頼は大きかったのであろう。 従って、この時代は、伊東氏が狩野氏であった時代であり、この狩野茂光が一族の当主であり本家であった。
 
 また、当時伊豆国には、四十からの中小武士団がひしめき合っていたが、狩野氏が国の検断権を保有してそれらの武士団を統括していたと考えられる。
 伊豆国で中心的な存在となった狩野氏は、保元の乱(1156)では源義朝に従い、平治の乱(1159)からは伊豆に配流になった源頼朝に仕え、その一族は広く源氏に用いられた。
このように、狩野氏(伊東氏)はもともと源氏の家臣であった。

 「保元物語」に、狩野介の茂光の子工藤宗茂、工藤親光を示す「伊豆国は藤四郎、同五郎」と記録され、狩野茂光の強大な政治・軍事力を物語る事件が記録されている。
 保元の乱に敗れ伊豆の大島に配流になった義朝の弟源為朝は嘉応二年(1170)島民を率いて反乱を起こした。
 当時大島など伊豆七島も狩野氏の領地であったが、為朝は茂光の領地をことごとく押領し、年貢も出さず、鬼が島へ渡り鬼神をやっことして使い人民を威虐していた。このためやむなく狩野介は、高倉天皇の御世・嘉応二年(1170)京にのぼり、この経緯を天皇に奏聞した。後白河上皇は驚かれて、「伊豆国並びに武蔵、相模の軍勢を集めて出陣するように」と茂光に院宣を発せられた。そして将軍茂光に従った兵は、「伊藤氏、北条氏、宇佐美氏、加藤氏、沢氏、新田四郎氏、藤内遠景氏など五百余騎、兵船二十艘」。この軍勢で大島の館に押し寄せ、為朝を討伐している。
 このように、狩野茂光は、鎮西八郎為朝の征伐将軍を務めており、この東国の地で強力な支配権を持っていたことを物語っている。


          <(私領)楠美荘>伊東郷・宇佐美郷・河津郷の荘園化

 祐
隆は、応徳ニ年(1085)、完成なった狩野荘の家督を一子茂光に譲り、新天地の開拓を期待して狩野から東海岸の伊東へ一旦引退していった。
 「伊東」の地名発生の由来は、もともと「伊豆の東浦」を意味し、伊豆半島の東岸部(熱海~下田)までを総称したものといわれ、平安時代は「伊東七郷」(鎌田、岡、和田、新井、竹内、松原、湯川)として存在し、荘園として完成し「伊東荘」と言われるようになったのは、永暦1年(1160)祐親が伊東郷を引き継いだ以降であろうと言われている。

 「真名本曽我物語」によると「伊豆の国のうちに、大見、宇佐美、伊藤と云、この三ヶ所を束ねて楠美の荘とす。本主をば楠美入道寂心と申、在俗の時は宮藤太夫助隆(祐隆)とぞ申ける」。また、「流布本曽我物語」には、「伊豆国の伊東・河津・宇佐美、この三ヶ所をふさねて楠美荘と号す」とあり、大見を含む・含まないで多少の差異はある。

楠美荘の中心は伊東七郷の岡あたりで、そこには現在でも、伊東家の守護神で京都から伏見稲荷大明神を勧請して建立したといわれる、クスノキを神域とする「葛見神社」がある。(この葛見神社にそびえるクスノキは樹齢千数百年で全国のクスの木の中で13番目。全樹種の中でも19番目の古木で、天然記念物に指定)
 この頃には、祐隆は楠美(久須美)入道祐隆と呼ばれており、それまでの伊東七郷と宇佐美は開拓が進展し、それぞれ荘園としての形を完成していったと思われる。そして、これに加えて北は熱海、南は河津、西は八幡野、狩野一帯を領有するようになり、ほぼ伊豆国の約半分を支配する一大豪族になったという。
 伊東氏の居館は、現在の伊東市大原と仏現寺の台地一帯にあったらしく、自然の地形を利用した軍略上の砦や要塞のような自家防衛のための陣地をなしていた。
物見の松のあった物見塚公園から葛見神社や東林寺のある一帯が当時の伊東家の中心的な場所と考えられている。



           <曽我事件の原因伊東荘をめぐる伊東一家の家督紛争


 
伊豆半島の東部の開発が進展し、港に近く交通の便がよく、経済活動の活発な伊東の地は、やがて政治文化の中心として発展して行った。その時の流れと共に祐隆自身は老齢化し、子供の成長と共に家督相続の重大問題に直面することになった。
 院領であった「狩野荘」の経営は、すでに狩野氏の株と共に三男の狩野茂光に相続していたが、楠美荘(久須美・楠美・葛見とも記す)を構成する伊東郷・宇佐美郷・河津郷の相続はなされていなかった。

祐隆の子は、正室との間に長男祐家と三男茂光、正室の死後に娶った後室と間に出来た二男祐経とその弟祐茂がいた。
 ところが、嫡男祐家に対する家督相続を待たず祐家が急な病で早世してしまった。
伊豆半島の大豪族で実力者の祐隆の悲しみと衝撃は大きく、さすがの祐隆も剃髪染衣の姿なって「葛美入道寂蓮」と号したという。
祐家に遺児(後の 祐親)がいたが未だ幼少であったので、やむなく祐隆が養父となってこの孫を養育する一方二男祐継を嫡子にたて本領の楠美荘を譲り、工藤武者所と名乗らせた。祐継は、当時京の皇居清涼院の武者所にいて皇室の警護の要職にあったのである。
工藤氏の統領であり、楠美荘の領主の立場は、政治・軍事両面できわめて大きな実力と強い経営力を必要としたので長男祐家の幼子への相続は困難で、継母の子ではあっても二男祐経への相続は父祐隆として当然な決定であった。
 
 時は過ぎて、祖父祐隆は遺児 祐親の成長を見届け、河津二郎 祐親と命名し河津郷に住まわせた後、やがて黄泉の国へ旅立った。そして、伊東武者所祐継も四十三才の夏、以前武蔵大倉の戦いで負傷した傷がもとで、狩に出かけた帰途重い病に襲われ死の床にあった。そして当時九才になる嫡男金石(後の祐経)を残して死を迎えたことを悲しんだ。そこで、枕もとに成人した甥子の祐親を呼び寄せ遺言を残して他界したのである。
 その遺言とは「金石が十五才になったら一緒に京の都に上がって、当楠美荘の領家である小松殿の見参に入れて、大宮御所に祗候し、伊東荘・河津荘の両所を,そなたの娘と金石とを結婚させて支障無く知行(支配)できるようにして欲しい」と頼んだ。要するに金石(祐経)に娘を添わせて、祐経の後見人・舅として面倒を見て欲しいという遺言だったのである。。

 そこで祐親は、金石を十五才の時、祐親娘の万劫(まんこう)を妻に添わせて京に上り、小松殿平重盛に見参、大宮御所に伺候し、重盛を烏帽子親として元服させた。その後、二人をそのまま京に留め置き祐親一人伊豆国伊東へ帰国したのだった。
 当時、工藤氏の武者所への関わりは、祐隆、祐継、祐経と続き、皇室と工藤氏の関係は密接に成立しており、伊東氏を称えた鎌倉時代に入っても滝口に祗候されていた。
 祐親は伊東に帰還した後、もともと楠美荘領主の正統な嫡子の地位は自分の方にあったと、先祖(祖父)祐隆の決定に異議を唱え、祐経の後見人の立場を利用して祐経から家督と楠見荘の領地を押領し、河津荘は自分の嫡男祐通に譲り、自らは伊東荘に移り住んで、名前も「河津 祐親」から「伊東 祐親」に改姓したのだった。

 伊豆半島の海岸沿いで最も肥沃な伊東郷を中心とする土地は、伊豆国では水囲圏が発達し最も広い魅力的な領地であったが、これを開拓し最初に領有したのが祖父祐隆であった。当時祐隆が、私領主として一定額の「加地子」を収納する権利を保有し、祐隆の死後は祐継が相続していた。

 祐親の伊東荘を中心とする活躍と勢力の拡大は目覚しかった。祐経・万劫を京の大宮御所に預けて(伺候)帰国後、この祐継の領地を、京の中央政界のドン・平重盛に寄進して荘園として認知させ、重盛は自分の権利は留保した上で、更にこれを大宮(藤原多子)に寄進したという。
こうして、 祐親は、伊東荘を平重盛と大宮御所という権勢門家の庇護のもとに置き、この権勢門家に一定額の上納を施すことにより伊東荘の大きな保護と安定化とを図ったのであった。
 一方、小松殿平重盛のもとで公武の仕事に励み天下の政務にもなれた祐経は、文武に優れ、皇室の武者所滝口の一臈(いちろう・長官)になっていた。ある日、伊豆国・宇佐美に住んでいた実家の母から1通の手紙を受け取った。

 その中には、伊東荘の出来事などの便りと共に、父祐継が母に託した「伊東荘、宇佐美荘、河津荘の三つの領地を、祖父祐隆から父祐継に相続する譲り状や地券文書(権利書)が同封されていた。祐経は、伊豆の伊東荘はじめ伊東家の領地は義父・舅で養父でもあった 祐親の所有地とばかり思っていたので、その文書をみて驚き、仰天した。
  祐親の押領と近年の威勢のよさを見かねた郷里の年老いた母親から、事柄の真相を知らされた祐経は、 祐親に対して、日頃、恩義と信頼こそ感じても不信感を抱いてはいなかったので、はじめは苦悩で眠れぬ夜を過ごした。しかし、ことは伊東一族の嫡家・宗家の相続問題で重大事件であった。
 まもなく、はじめ伊豆の 祐親のところに代官を遣って伊東荘の返還を頼んだが断られ、改めて再三迫ったが応じなかった。ついには、 祐親は、祐経に「娘婿として恩義のわからぬ奴」と怒りをあらわにして、こともあろうに祐経妻となっていた娘の万劫を祐経から取り上げて、相模の土肥遠平に再嫁してしまった。伊豆国内外に聞こえた実力者となり、しかも祐経の養父であり、舅であり後見人でもあった意識、フライドがそうさせたのかもしれない。。
 
 ついに、事態がこうなっては埒はあかないと覚悟を決め、祐経は京の六波羅に訴訟を提起し、祐親も検非違使の別当から呼び出されて両者対決となった。
結果は、先祖(祖父)の決めた家督相続の定めに謀叛を興した 祐親に道理は無かったが、平家に領地を寄進してわが身の保身をはかって道理とした 祐親が有利な判決を勝ち取った。
 やがて、再度解決を阻まれた無念の祐経は、暫くたって覚悟を決め、遂に家臣に命じて非道の極みとなった 祐親の討伐に動いていった。



        <頼朝 伊豆国配流>流人・源頼朝を預かった伊東氏「伊東荘」


 
これより先、永暦元年(1160)三月十一日、源頼朝14才の時平家に捕らえられて伊豆国韮山の蛭ヶ小島に配流された。伊東祐親と北条時政が守護役(監視)に任命され、頼朝は 35才まで21年もの長い間祐親に預けられ、仁安ニ年(1167)からは伊東荘にあった小御所に住んでいたという。
 工藤・狩野・伊東氏は、祖父祐隆が源氏に重く用いられる以前から、元来源氏の親密な家臣であったが、祐親は、祐経との六波羅での伊東荘訴訟事件以降、工藤・狩野・宇佐美などの一族から離れて一人平家に従属していた。伊東荘の荘園としての不安定化を防ぐため、京の平家中央政府および朝廷との緊密化(寄進地系荘園)に依存していたのである。このため、平家家臣としての立場上、誠実な監視・守護の役人であった。しかし、日頃は、頼朝を親しく懇ろにく世話していたので、源氏の親王頼朝は伊東荘でかなり自由に過ごしていた。

 そして、 ある時、祐親は、京の大番の任務を終えて伊東荘に帰還したところで衝撃を受ける出来事が起こった。
 頼朝は、 祐親の伊豆不在の間に、青春期には近くの音無神社の境内で祐親の娘八重姫と人目をしのんで会い、すでに結婚し、一子「千鶴丸」が誕生していたのである。
こともあろうに、平家の罪人頼朝の子を監視役の自分の娘が産んでいた、平家全盛期の当時、さすがの祐親も動揺を隠せなかった。
まもなく、頼朝と八重姫の愛は、父祐親が義理のある京の平家に発覚することを強く恐れたことによって引き裂かれ、この千鶴丸は、三才の時に松川の上流の深淵(稚児ヶ淵)に沈められたと言われる。(これには諸説あり、比企尼が頼朝の乳母であり、比企尼自身の娘が 祐親二男祐清の妻であった縁で伊東荘に出入りしていたので、 祐親による殺害を装って、千鶴丸は比企尼の知恵で別所に預けられたという。)
 伊豆・伊東家の先祖累代の墓がまつられている伊東駅近くの最誓寺は、その悲劇を乗り越えて、後に北条ニ代目執権・北条義時となる江間小四郎の室(再婚)となる八重姫が、千鶴丸を供養するために創建したとされる。
 また、後日 祐親は、頼朝の殺害をも計画したが幸いにも 祐親二男祐清の機転により救われ夜にまぎれて北条時政のもとに逃れたという。

 このような事態の流れの中で、伊東一族のうち祐親だけは頼朝と厳しく対立するようになり、その後も、誠実な平家家臣の役人として変節することはなかった。そのことは、所領の支配権の拡大・強化を狙う成長した地方武士団の動きを背景にして、世間の平家の専制政治に対する悪評,非難の高まりと共に、源氏の若き親王頼朝周辺においては源家再興の動きに向けて慌しくなりつつあったことが、頼朝守護役の祐親を一層神経質にさせ始めたことがあったと想像される。


         <源平合戦の勃発>伊東一家は平家と源氏に分れて参戦

 治承4(1180)、源頼政は、京で後白川法王の皇子以仁王を奉じ、反平氏勢力とむすんで平氏打倒の兵を挙げたが宇治の平等院で敗北した。
 東国でも、同年8月、平治の乱で敗死した源義朝の子頼朝が伊豆国目代山本兼隆を倒し挙兵。はじめ兵300で大場景親の平家軍3000余騎と石橋山に対峙したが数に勝る平家軍に敗北。頼朝は山中を命からがら敗走し、海上を安房(千葉県)に逃れた。この戦いで、 祐親・祐経の叔父(祐隆三男)狩野荘領主の狩野工藤介茂光は石橋山の山中で頼朝の敗走を助けるため身代わりとなり討死。一説には、茂光は巨漢で高齢であったため頼朝一行の追走合流は困難と断念し自害したとある。
 頼朝挙兵後まもなく頼朝の監視役であった祐親は、伊東一族(工藤・狩野・宇佐美等)がこぞって源頼朝に味方した中で平氏に味方し、その石橋山の合戦では兵300で石橋山の背後に布陣し頼朝打倒を計ったが成功しなかった。その後、祐親は、富士川の合戦(1180年10月)に参戦したところ、駿河に逃れんとして捕らえられ、女婿の三浦義澄に預けられた。義澄の尽力で頼朝への罪を許されたがこれを潔しとせず寿永1年(1182)2月14日自殺した。

  一方、伊東・工藤家総領の祐経は、本領の伊東荘は祐親に押領されていたが、京都御所武者所では一臈(長官)・左衛門尉に就任し、小松内府平重盛に親密で朝廷の内情にも通じていた。
やがて、重盛は死去し工藤・伊東宗家として平家への近侍も極めて悩ましい状況に変化した。また、伊東入道祐親は捕らえられて後自害し、本領伊東荘は頼朝の手に落ちてしまった。
 そこで祐経は、寿永1年(1182)頼朝の重臣であった叔父狩野工藤茂光、弟の宇佐美三郎祐茂に付属して鎌倉に下り、両人の仲介により頼朝にはじめて謁見。ここに、源氏家臣伊東一族の再結集が実現した。

 他方、頼朝弟義経は、元暦元年(1184)宇治川で源氏の木曾義仲を討ち、遂に平家追討のため京を進発した。
 義経の二番目の兄で平家追討使・源範頼を大将とする五万騎の大手軍は、敵将平知盛軍五万騎と生田川に対峙し、義経の搦め手軍一万騎は三草に陣した。
この本隊・範頼軍の攻撃にあわせ義経は70騎を選りすぐり「ひよどり越えの逆さ落とし」の奇襲戦法で平家の前進基地一の谷城を攻めて打ち破った。

 同じく元暦元(1184)年8月8日、この源氏軍本体の範頼の大手軍の諸将の一人として総領・工藤祐経は伊東一族をひきつれて西海(瀬戸内海)に発進。平知盛軍との一の谷の戦いをへて、1185(元暦2年)正月26日には兵船82艘で豊後国へ渡海した。壇ノ浦の決戦であった。
 壇ノ浦戦いは源平それぞれの水軍の戦力の戦いであったが、一の谷の合戦同様、範頼の大手軍の圧倒的な圧力のもと平家水軍の寝返りと義経の戦艦の漕ぎ手を集中的に撃つ奇襲作戦によって平家の栄華は壇ノ浦に沈んだ。
 そして、同年3月11日、頼朝は範頼と工藤祐経など十二人の諸将に慇懃な手紙を送り、天下を揺るがした源平の合戦の戦果を称え、苦労をねぎらったのだった。

 祐経の伊東一族は、更に後年文治1年(1189)、奥州藤原氏との討伐・決戦に赴き、多くの戦果を挙げ勝利に貢献したことで、奥州の地に恩賞として多くの領地を与えられたとされる。

「巌鷺山縁起」には、工藤景光(庄司)・行光親子も参戦し、「行光は軍功に対し岩手郡三十三郷、貞任の古城、巌鷺山の阿弥陀,薬師、観音の三尊、大宮司を蒙る」とあるという。
奥州工藤氏は鎌倉時代になって祐経の子孫が津軽に移り、南北朝期には宮方が勝利を収め、工藤祐経六代孫の工藤貞行は恩賞として現在の青森市の一部まで津軽の穀倉地帯の主要部分を給与され津軽の有力武将となった。

しかし、貞行は八戸を本拠とする南部師行と親密で、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、南朝・北朝に分れると師行とともに南朝に味方した。男子の子がなかったので戦に出るごとに、財産を娘や妻に譲るとの遺言を残した。そして、大事な長女の加伊寿御前に養子をとらず、この娘を師行の娘が産んだ信政に与えた。これにより両者は更に緊密化した。

 後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて北畠家が、足利尊氏討伐の軍を起こすと、工藤貞行は南部師行と共にその奥州軍にしたがったのであった。
しかし、南朝は次第に尊氏におされて、顕家は延元三年(1338)正月、美濃青野ヶ原の戦いから伊勢・伊賀・大和にきて、京都に入ろうとして般若坂で敗れて河内に逃走。五月、顕家軍は敗色濃く、貞行は南部師行と共に和泉の観音寺の陣から堺浦の足利軍を攻めるが、高野師直に率いられた大軍には抗しがたく、21才の青年大将・顕家は死に、貞行も師行と顕家を守って戦死したのである。

ここに、工藤氏の男系は途絶えた。そして、貞行の津軽の所領は、遺言により加伊寿御前と妻の志蓮尼に相伝された。夫貞行の死後、妻の志蓮尼は女ながらも黒岩城を死守し北朝方と戦う気丈の人だったが、志蓮尼は自分の土地も加伊寿御前に与えた。
 このため、工藤氏の津軽の土地は加伊寿御前の産んだ南部氏の子にすべて移譲され消えた。南部氏は戦わずして婚姻により津軽の主要な土地を自分の手中に収めたのである。
 言いかえれば、その後の南部氏は、工藤氏の血統と津軽のすべての領地・資産によって女系の工藤氏となったのである。


<参考文献>
①伊東秀郎氏 「曽我兄弟仇討ちの機縁」(日本文学研究大成)
②宮崎県史叢書 「日向記」(宮崎県史刊行会)
③全訳吾妻鏡(新人物往来社)
④源平の興亡(学習研究社)
⑤山本武夫「新研究日本史」(旺文社)
⑥永積安明「保元物語・平治物語」(角川書店)

⑦財団法人 伊東奨学会五十年史「歴史の中に見る伊東氏」(楠戸義昭)