開演:2003.10.20

伊東家の歴史館 縁起
<先祖の軌跡と謎の探求>


        ■少年の日の宿題--畑の中で出会った歴史の昔話
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ホームページの公開を決意させた父の日のプレゼント
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栄枯盛衰と諸行無常--深遠なご縁と生き様を尋ねて
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老齢学校入学の記念事業--手作りの「日本史の覗き窓」
      
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■少年の日の宿題---畑の中で出会った歴史の昔話
 今にして振返れば、それは不思議な霊界対話のような心象となって鮮やかに蘇るのである。
わたくしの「伊東氏の日本史」再発見の旅は、屈辱の太平洋戦争の惨禍も生々しい、昭和20年代後半の戦後間もない少年の日に、鹿児島県にある元海軍航空隊鹿屋基地(現自衛隊)に近い薩摩芋畑(現地でカライモと呼ぶ)で交わした、今は亡き明治生まれの父親との懐かしい会話が出発点であった。学校から帰って庭先に広がる畑に出たわたくしは、南国の強い日差しのもと猛烈に働いた後、土色に日焼けし汗で光る逞しい顔相で迎えた父親に向かって唐突に尋ねた。
「お父さん、何故、私たちはここに住んでいるのか。・・・・・」と。

 どこか豪勇のサムライ風に見えた父は、驚いた様子もなく、むしろそのような質問を待っていたかのようににっこり微笑んで応じた。
「わが家はね・・・大昔、関東・伊豆に住んでいたがある時代に日向に下って来た、と父親がよく話をしていた。その後、日向と薩摩との大きな戦争があり、日向伊東が島津に負けた時から薩摩に移り住むことになったそうだ。元は日向の伊東なんだね。確かに、ずいぶん以前になるが、ある日宮崎の伊東のある人がうちに花を持って尋ねて来られたこともあったな・・・」。また、先祖たちは、薩摩藩士として参勤交代とは別に代々京や江戸にも出かけて勤める役目があったらしい。そして、後年、長女であった姉の話によれば、祖父は生前「伊東の元の名前は工藤だった」と語っていたと言う。

 「明治の西南戦争の時にね・・・、爺さん(実は、当主伊東源右衛門の嫡男伊東次吉・同居の祖父の兄)たちは薩摩軍に属し参戦した。とは言っても「革命政府に異議有り」の旗を掲げた西郷どん(殿)の「私学校」の生徒ではなかった。鹿屋郷(鹿屋市)から参戦した約200名の兵士は、西南戦争には中立的な藩主(島津久光公:実は藩主忠義父)によって設立された警護隊(親衛隊)「島津学校党」に属していた。」

 島津学校は上級家臣であった者の教育機関として別名「温古堂」と呼ばれていた。その島津学校党は、薩摩藩の幹部に当たる上級家臣の子弟から構成された別働隊だったが、久光を中心に都城島津家久寛など一族や上級家臣との連絡調整に当たるなどの任務も果たしていたと言われ、一説によれば西郷の「私学校」と勢力伯仲していたという。
 従って、西南戦争については中立的な立場であった島津学校党は、薩軍の行軍・暴走を監視する任務があったらしく、私学校の兵士との間でいろいろトラブルもあった。しかし、ラストサムライ・西郷決起への心情を共に強くして、あの歴史に残る熊本城・田原坂の激戦に、鹿児島から出発して大口、三太郎越え、人吉へと進軍し薩軍の後詰で参戦したという。
 そして、亡父はさらに話を継いだ。「一方、後方支援の任に当たっていた「島津学校党」の兵士たちは、官軍の烈しい追跡を逃れながら、幸いその多くが死なずに逃げ帰ってきたという。しかし、暫くしてうちの爺ちゃんも官軍の摘発を受けて連行され、長崎に設けられた特設の戦争裁判所の判決によって制裁を受け、その服役の途中で死亡したそうだ。
 薩軍は、官軍と戦い敗れ去り賊軍にされたのでそれまでの武家の特権は剥奪され、島津殿(どん)からもらっていた一帯の見渡す限り広い領地(抱地・堀)も失った。その混乱の中で残った男3兄弟のうち二人は失明の憂き目が重なり一家は養子・養女で離散した。お父さんは維新で没落したその破産と借金経済の家で育ったんだ。作人(農家)になったので、牛馬と共にわが家も朝は早くから夜は暗くなるまで働いて苦労は絶えなかったね・・・」。(鹿屋郷土誌/昭和12年、鹿屋市史/平成7年発行 「西南戦争・最強薩摩軍団崩壊の軌跡」/学研 1990年発行)



伊東勇吉(明治36年5月生 享年78才)  幕末薩摩藩士の祖父伊東源右衛門(通称源四郎 文化12年9月15日生)嫡孫。この家は、島津藩主と根占家当主の家老小松帯刀に属し、大隅の開発領主にも主役をなしていたので、維新以前で「生麦事件」から「文久の役」の前後に薩摩から鹿屋へ移住している。(実は、此処鹿屋は、昔は肝付氏の領地だったから小松(帯刀)殿との縁は深かったと語った)
 伊東祐吉(すけよし)流であるので「勇吉」(ゆうきち)の名は「祐吉」(ゆうきち)の音に当て命名したのかも知れない
 著者が勤務先の大阪から鹿児島に帰省した昭和34年(1959)8月、一面に広がる陸稲の豊作畑を背に 撮影(写真は当時56才、子供は孫の一人)。

       <歴史館の源泉>

 
畑の中で出会った父親の昔話

 
著者に伊東家の歴史の調査を促し、創作の動機を与えた歴史館の源泉は、太平洋戦争の戦後間もない少年時代から高校生時代にしばしば聞いた明治生まれの「父親の昔話」であった。 それは、薩摩伊東家の家伝であったが、家運の厳しい現実につながる先祖のドラマは、どのような因果であろうか、大人になっても多くの身内の中で誰よりも関心の高かった著者に連れ添って離れなかった。そして何時しか「自分が解明して後世に伝えねば、ここ伊東家の歴史と父の想いは永遠に消えてしまうという焦る思い」が強まり、会社の定年の数年前から始めた活動であった。父は、色々語ったが、悲しいかな子供の理解力と記憶ではその大半を聞き逃しあるいは忘れている。
 その中で、
薩摩の伊東家は、関東・伊豆にはじまり隣国日向の由来であること、島津氏・肝付氏・根占氏・田代氏等と歴史的な深い関係、歴代この家は、江戸・京との往来も多く、幕末の祖父伊東源右衛門は、城代家老「小松帯刀」に身近に仕え活躍したこと、西南戦争の敗戦により鹿屋伊東家は、没落・離散して経済的苦難に遭遇したことを鮮明に伝えた。特に、身内は根占・田代にも依拠して、歴史的な親交を強くうかがわせた。
 
小松帯刀は、元の名前は肝付尚五郎で、島津氏に属する以前は、古来豪族の大隅領主肝付氏であった。
(2008.11.17 追補 伊東記)

       
<参考>父よ、歴史の昔話を有難う (薩摩の東氏)

 この時節、現代風に言えば戦争の敗北に続いて公民権停止、家計は倒産、資産は差し押さえられ破産宣告されたようなのであろうか。しかし、そのような風景が当時薩摩の到る所に横溢していたのであろう。身近な家族に起きたその昔ばなしを聞いた時、維新から10年後に起きた西南戦争の歴史問題がわが家を直撃し、その影響はまだ昭和初期の当時の自分たちにまで及んでいることをひしひしと感じた記憶が鮮やかに甦ってくる。
(思えば、わが家にも武家社会終焉の舞台を飾った伊東源右衛門(実名源四郎)の嫡男伊東次吉(当時23才)という<ラストサムライ>がいた。近年調べてわかったことであるが、名頭の次は「次郎右衛門」「祐次」など先祖の頭文字、一族の子や孫にある吉の文字は、この伊東家一族の歴史的拠点の一つで、幕末に源右衛門が仕えていた島津氏本家誕生の地・加世田の要衝「吉利」(領主・城代家老小松帯刀)を記しての採用かと推察される。)

 そして、誰も逆らえない、運命的な天下大反転の時代の混乱の中で、事柄の真実は見えなかったのであろうか、あるいはただ恐縮していたのであろうか。哀れ後の家族は、西南戦争の悲劇を意識して口を閉ざし、没落を恥じてこの<ラストサムライ>の墓石には名前も刻まなかったという。
 そこには、維新政府内部の政権路線対立・派閥抗争の激突があった。此方に武家一族の宗家としての箍(タガ)・責任を有し、領地と家格を与えられた御家(藩)に忠義を尽くしてそれまでの我が愛する一家、ふるさと、そして祖国日本を守るために懸命に生きなければならなかった武家実権派・経営者側(保守派)に対し、他方に過去への身軽な立場に加えて文明開化の新たな機会到来に期待を募らせ、今までの日本を徹底的に壊して新しく西洋式に作り直そうという維新政府側(革命派)の激突の爪跡があった。

 それは、徳川幕府300年の討幕という「維新前半の大事業」を達成した後での本家・嫡男など上級武士と二男・三男など下級武士との戦い、持てる者と持たざる者の戦いでもあった。一族の武士・兵士がそれまでの置かれた立場の違いによって薩軍・官軍と二股に分かれて死闘を繰り広げた西南戦争。東京の「維新政府(現霞ヶ関)の内部」において、「明治維新後の日本国の内外政策は如何に進むべきか、特に国内にあってはサムライの身分と武士社会の地位をどのように取扱うか、また西欧列強やロシアや中国・朝鮮とはどのように付き合うか」という革命政府の基本的命題についての激論から発生した保守・革新両勢力の政治的な対立と抗争は、明治維新の成否を揺るがす「最も深刻で致命的な難題」として立ちはだかった。

 結局、二転三転した挙句、大久保などの維新政府が取ったその解決策は、
結果的に、敬天愛人の巨人・西郷の「大至誠と大胆力」に委ねられた。それは、全国各地に横溢していた暴発寸前の維新の逆風を、「西郷南洲による西南戦争」(西郷の乱)という形式に集約・転化しこれを官軍が鎮圧し、維新最高の主役であった西郷を、「西郷の乱」の犯罪人の首領として討伐することによって、全国の維新の空に立ち込めたすべての暗雲と不穏なエネルギーとを跡形もなく発散するという荒療治であった。言い換えれば、西郷によって燃え盛った明治維新の巨大な炎は、西郷によってしか鎮火できなかったのであった。そして、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という歴史の大津波と過酷な運命が、およそ「首都の政治的喧騒とは無関係な、西国の果てのこの家にも押し寄せたのである。その結果、薩摩や日向、そして全国各地の近しい人々とのつながりや記録は消し去され、賊軍の責めを受けた当主は還らぬ人となった。この家の足跡や歴史は山のように多く存在したと思われるが、それが忽然と失われたのみでなく、武家社会の崩壊と引続く社会構造の地殻変動は、そこに何事も無かったようにその悲哀のすべてを飲み込んで、表立って語られることも忌避されたまま、忘却の彼方に消えたのである。

 大いなるこの無常は、言葉を替えれば、先祖方の築いたわが国武家社会800年の伝統文化と父母たちの屍を乗り越えて、わが国に到来した新世界・新世代に向けて旅立つ子供たちの、大いなる脱皮と飛翔の苦しみであったとも言えよう。
 天地入れ替わりの時代の激変は、まさに狂気であり無常であったであろう。それが武家社会の倒壊の時代に青春をかけて生きた誇り高きわが<ラストサムライ>のふるさとの風景であった。


(追記:家伝の記憶)
武士の社会が過ぎ去っても祖父たち兄弟には、幸いにも薩摩の焼酎と薩摩男児の熱い血潮やプライドだけは残っていたようである。祖父の四人兄弟の一人は、祖父同様維新の騒乱の中で失明した人であったが、時々焼酎の勢いに任せて「天下はひっくり返ってもなぁ、伊藤博文も伊東なんだぞ!」と語っていたと言う。また、その読みは「イトウ・ハクブン」だったと言う。しかし、義姉たち家族は、「遠方の長州の伊藤がどうして伊東であるもんね、爺ちゃんはときどきオカシイことを言う」と、まともには相手にせず苦笑いしていたのだと言う。
 ところが、平成時代に下って、わたくしは、慰霊をかねて飫肥城はじめ日向各地の史跡を参拝した。その前後に、思いがけず歴史的な縁者に遭遇して、家系図と共にその両者の関係について教えられることがあった。そのことがあって、義姉が伝えたその祖父方の昔話は、実は、酒の上の戯言だけではなかったことを知らされたのである。

 更に、近年、伊藤博文と伊東家を巡る関係に新たな再発見があった。その一人は、伊藤博文が進めた明治憲法制定に当たって、博文の懐刀としてその欧州憲法調査団に同行し、後に首相秘書官長、内閣書記官長・農商工大臣・枢密院顧問となった「長崎出身の伊東巳代治」であり、もう一人は、同じく欧州憲法調査団に随行した後、大蔵省入行、法制局長官、貴族院議員となった「米沢藩出身の平田東助」であった。平田は、伊東忠太の弟で元の名前は「伊東道策」という。平田家を継いで養子となった。この二人は、伊藤博文を支えて明治憲法の制定、並びにこれにもとづく司法制度および官僚制度の確立に中心人物となって大きな足跡を残し、後に共に伯爵に叙せられた。殊に、巳代治は自らを「憲法の番人」と称したと言われる。

 そして、出身地が長州・長崎・米沢と異なる三者の間ではあったが、「明治憲法とそれに基づく司法制度」誕生のこの時節に、三者の心中に「特別な縁の存在」があったことは興味深いことである。それは、はるかな飛鳥京時代、文武天皇の命により刑部(忍壁)親王(天武天皇の第九皇子・おさかべしんのう)と先祖・藤原不比等などが主役となって完成を進め、現代の法治国家システムの基礎となった「大宝律令制度」(西暦701 大宝元年)に匹敵する偉業とも言えるが、そこには、奇しくも武家社会の歴史から伝わる、「伊東一族の全国的なネットワーク」の如きものが存在し機能していたように想像され、大いに目を覚まされる思いであった。

ホームページの公開を決意させた「父の日のプレゼント」

 先年の父の日に、東京にいる末の息子から「伊東家の歴史の謎は多い。このような趣旨でまとめて公開したら・・・。」というレターを添えて、IBMの「かんたんホームページビルダー」がプレゼントされてきたのである。こちらの歴史の調査を早く仕上げてホームページを作れ、という督促と声援が届けられたのであった。
事の成り行きに大いに興奮しまた躊躇したのであったが、おそらく息子の実際の気持ちは、会社を定年になってこれから先に確かな行き場と刺激を失った不器用な父親を案じて、「親爺、仕事を離れても早くボケてしまうなよ!もっと頑張れや。」という気遣いのシグナルだったに違いない。
 しかし、その思いの発露は不思議なことであった。それまでにも、上の息子たちにはパソコンやインターネットについて何かと教えてもらっていたが、この稚拙なホームページは、歴史学には素人でIT石器時代の私が、息子たちが提供してくれたそのような便宜や激励を追い風に、かって少年の日に、亡父から運命的に伝達されたテーマ(宿題)に突き動かされて、言わば自分の「老齢学校入学の記念事業」として一念発起し、数ヶ月かけてまとめた成果である。

 そして、このホームページのコンテンツ製作を通して、平安時代に起きた源平の大乱以来800年以上続いた武士社会が崩壊に至った明治維新---その混乱の中で見失ったふるさとや自分に関わる歴史問題を、一世紀以上の時を経て解き明かし、永年の宿題にようやく回答を出すことができた。しかし、その調査の過程にあってはどのような力が働いたのであろうか、何故かわからないが日々に僥倖そして幸運。否、明かに「大いなる不思議な力に導かれた」としか言いようのない珍しい史実やご縁との遭遇・出会いの連続であった。


■栄枯盛衰と諸行無常---深遠なご縁と生き様を尋ねて

 科学・技術の世界が「因果則」で思考し始めるはるか以前、紀元前500年頃インドで誕生した釈迦は、全世界・この世の一切は「因果の法則で織成された世界」であり、宇宙の極微から巨大な宇宙まで一切の世界は絶間なく縁起し変化ていると「仏教の根本法則」を説いた。
 歴史とは、「過去と現在」すなわち「原因と結果」の関係であり、過去を辿る歴史探検は、現在の姿の原因・成り立ちを巧みに教えてくれる。また、自分史を辿る--それは今を生きる自分を映し出すための「知恵の鏡」でもあると言えよう。

 そして、日本人としての自己確立や真の郷土愛、そして愛国心の醸成も、日本の文化や歴史に対する理解、親近感の深まりと不可分の関係にあることは論を待たないのである。
 伊東氏/伊藤氏は、実数はともかくおそらく全国に数百万人、そして遠近ご縁の深い人に至っては優に一千万人を越えるのではないかと思われる。お互いに日常的にはあまり目に見えないが歴史的なご縁の輪はとてつもなく大きく、そのエネルギーはこれまでわが国の計り知れない大きな力となって現在に至っていると思われる。
 伊東氏/伊藤氏の発祥とその歴史を知ることは、日本人としての自分を見詰め振り返ることでもあり、それに深く触れる人にはきっと貴重な何かを示唆し、勇気を与え人生を豊かにするに違いない。

 しかし、この伊東史の1400年は、先ずは途方もなく永い年代・時間として縁遠く見える。ところが視点を変えて、現代に生きる私たちの祖父母・父母・自分・子・孫といった普通に目に見える歴史を、仮に1サイクル100年として分けて見たとき時には、僅か14回の繰り返しでしかないのである。
 私たちは、これまで幾多の戦乱、経済社会の激変、生活の厳しさ等のために、あるいは目先の歴史に捕らわれ過ぎて来たために、自分には見えないがその後方に絶間無く連続して存在し、歴史の創造者・体現者であった自分たちの先祖・先輩を、忘却しあるいはあまり意識せず軽んじてきたのかも知れない。

■「老齢学校入学」の記念事業---手作りの「日本史の覗き窓」

 わが国における歴史教育の問題点の一つは、それが一元的な国家的総括主義、知識の詰込み主義、空虚な客観主義に片寄っていて、国家に立派な歴史はあっても、自分たちやわが家の歩みとして身近に血肉に訴え、物語性をもって伝えられる「生きた歴史教育」が少な過ぎるところではないだろうか。歴史は、本来ドラマチックでもっと面白みに富んだものであると考えられるが、歴史教育の現状は極めて貧相で退屈な科目になっているように感じる。どちらかと言うと国家と家族と個人を繋ぐドラマのストーリーが希薄のように思われる。

「太平洋戦争の惨禍・悲劇」と「絶対平和主義」のみが歴史教育の中心であったり、また、日常の茶の間においては、信長・秀吉・家康の天下人など戦争の勝者を賛美し、虚飾して描いたステレオタイプのテレビドラマやマンガ、娯楽作品などが賑やかである。言わば表通り・片側通行の歴史ものが専ら幅を利かせている。その結果、せっかく学校で行われる歴史教育も、厳しい現実の前では他人事としてやがては実感の伴わない単なる知識として霧散して行く。

 社会・経済、仕事や人生において、「歴史」の持つ時間・空間の宿す英知(ソフトウェア)は計り知れないものがあり、またしばしば想像できないような不思議な偉大なエネルギーを発揮する。そこで、わたくしは、この「伊東家の歴史館」の稚拙なサイトが、ともすると忘却に晒された日本人と日本史を、もっと自分の人生にかかわった真剣で興味深い対象として身近に引き寄せる手作りの「日本史の覗き窓」、さらには「日本史への接近法」の新しい試みとして幾らか寄与するのではないかと思考したのである。
 また、日本の歴史と工藤氏・伊東氏(伊藤氏)の由来・歩みについて関心ある方々に、少しでもお役に立ち喜んでいただければ素直に大変うれしい。
 そして、願わくば読者の皆様の心に僅かでも楽しみや幸せを提供し、今後、わが国の多様で豊かな歴史の開拓、見直しや再発見、そして相互交流の隆盛に向けて関心を高め、小さな灯りを点すことに資すれば望外の喜びである。

<2006.11.13 家伝の記憶一部追加・訂正>
 
関連情報:「西郷の明治維新」と伊東氏(ラストサムライ供養)

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<感謝>

 当サイト:伊東氏/伊藤氏の日本史「伊東家の歴史館」の公開に関して、聚史苑のFUJIMAKIsachio様、日向伊東家の伊東祐昭様・伊東武正様、薩摩伊東家の伊東祐貞様・富田愿様・上穂木良子様、伊東明様、「南九州文化」編集長三浦正様、宮崎県立図書館、日南市立図書館、えびの市民図書館(郷土史担当)、鹿児島県立図書館、黎明館(鹿児島県歴史資料センター)、鹿屋市立図書館、大口市立図書館、奈良県立図書館、東京大学史料編纂所図書館、京都大学図書館、大阪市立中央図書館、ほか多くの皆様方から数々の便宜とご厚情、ご支援を頂きましたことを特記し心から感謝申し上げます。

        ---2003.10.20初校〔補正② 2004.1.6/補正③2005.3.10〕---


伊東家の歴史館
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