「曽我事件」の真相 |
〔1〕背景 <家督相続に異心>祐親の執念と深謀 --娘婿祐経・愛妻万劫夫妻をを襲った悲劇-- 「伊東」の起源は、伊豆半島の東側の荘園を意味する「伊豆の東浦荘」の頭文字をとって伊東郷(後伊東荘)を称したことに始まるという。葛見荘の中の一郷である。 平安時代後期(1100年頃)、鎌足第十六代藤原(工藤)維職は、駿河守であったが朝廷における将来性に見切りをつけ伊豆国押領使となり、京から伊豆に移住し、初めて「伊藤」を号したのであった。 その維職の家督を継いだ工藤家継(祐親・祐経の祖父)は、嫡男の祐家の早世に遭遇し、衝撃を受け悲嘆した。しかし、伊豆半島最大の豪族・南家嫡流の名家として、宗家を経営していくには、その子祐親が幼少であったため、やむをえず、祐家弟の二男祐継を本領伊東荘と工藤・伊東家の総領とし家督を譲った。そして総領武者所祐継のもとで、伊豆国・工藤・伊東家はさらに発展して行った。 ところが、時代が過ぎて成人した祐親は、この先祖(祖父)の家督相続のしかたに不満を募らせた。 祐経の父であった総領祐継は、黄泉の世界への旅立ちに臨んで、枕もとに甥の祐親を呼び、未だ幼少の宗家嫡子の祐経の後事を託したという。しかし、具体的にどのような思いを伝えたかは明らかでない。 伊東家総領祐継の死後、生前その祐継が祐親に託した遺言に基づき、祐親は祐経の後見人として動いた。先ず祐経十五歳のとき自分の娘「万劫」を妻にし添わせた。そして、祐経を京都・小松殿平重盛に見参させ、大宮御所に伺候し平重盛を烏帽子親として元服させた。その後祐親は、祐経を京都に留めおき自分独りで伊東に帰還した。そして、まもなく総領祐経が所領の伊東荘および河津荘を祐親の手中に押領し、名前もそれまでの「河津祐親」から「伊東祐親」に改姓したのだった。これが、伊豆国の大豪族 伊東祐親のスタートであった。 一方、小松殿重盛のもとで、学問と公武の仕事に励み天下の政務にもなれた祐経は、文武に優れ皇居武者所滝口の 一臈(首席)となっていた。ある日、伊豆・宇佐美の自宅の母から一通の手紙を受け取った。それは、父祐継が託した「伊東荘・宇佐美荘・河津荘の三つの荘園領地を、祖父家継から父祐継に相続する譲り状や地検文書(権利書)」が同封された手紙であった。 祐経はそれを見て驚き仰天した。そして夜昼何度も読み返したのであった。 ふるさと伊豆の伊東荘はじめ伊東家の荘園は、今までは「義父であり養父であった祐親」の領地とばかり思っていたのであった。 押領による祐親の権勢の増長を見かねた郷里の年老いた母親から、事柄の真相を知らされた祐経は、はじめ気まずさも手伝って祐親に代官をおくって伊東荘の返還を迫った。 だが 祐親はこれに応ぜず逆に「恩知らずな奴」と怒りをあらわにし、遂には自分の娘で祐経妻となっていた万劫を取り返し、これを相模の土肥遠平に転嫁させる挙に出た。ことここに及んで、祐経はついに京の六波羅にその「伊東家の領地の領有権問題」で訴訟を起こし、祐親も検非違使の別当から京に呼び出されて裁判は両者対決となった。 しかし、先祖の決めた家督相続に叛した所業の祐親には道理はなかったが、「平家に財宝・賄賂の贈り物」を以って道理とした祐親が、有利な判決を得たのであった。 このため、しばらくたって、覚悟を決めた祐経はついに家臣に命じて、従兄弟であり義父ではあったが祐経にとり非道の極みとなった祐親の討伐に動いた。 時は奢る平家、平清盛の専横と弾圧の政治が世間の怨嗟の的となって来た頃であった。関東武士の一人大場平太影信が頼朝を慰めるために、伊豆、相模、駿河の関東武士を集めて伊東祐親の館で開催した三日三晩の宴会の帰り際、討手の祐経臣八幡三郎が放った矢は、狙いは祐親からは外れ、誤って祐親の嫡男祐通(祐泰)に命中して死なせてしまった。この誤射された河津(伊東)三郎祐通(祐泰)こそ「曽我(伊東)兄弟の父親」であった。 後に発生する曽我事件は、単なる敵討ちではなく、当時の伊豆半島の実力者であった南家伊東氏(工藤氏)一族の間で、「伊東荘を中心とした荘園領有と惣領の権利」を争って起きた仇討ち事件であったのである。 不幸にして祐経は曽我兄弟の仇になったが、もし、舅祐親が従兄弟の祐経から「愛妻・万劫」を取り返しほかの男のもとに再稼するような、祐経の男子としての誇りを傷つける極端な仕打ちをしなかったならば、祐経の恨みが祐通を誤射することも無く、頼朝の第一の寵臣・工藤祐経が親戚の曽我兄弟に暗殺されるという日本史を飾る仇討ち事件は発生しなかったかも知れない。 そして、日本文学・芸能の名作「曽我物語」や「能・浄瑠璃の曽我もの」も無かったであろう。このように、祐経臣八幡三郎が放った矢によって曽我兄弟の父伊東祐通(祐泰)が死亡するという事件発生の直接の引き金は、実はこのような運命に泣いた祐経愛妻・万劫と従兄弟で舅の祐親にもあったとも言えるのである。 |
〔2〕 展開 祐経暗殺<曽我兄弟の仇討ち> --頼朝「富士のすそ野の巻き狩り」、雨中の寝所を急襲-- 総領工藤祐経は、平治ニ年(1160)、祐経の家督相続を定めた先祖の遺言を覆した従兄弟の祐親の裏切りにあって、本領伊東荘を押領され、その上、承安三年(1173)祐親と結託した京の平家による六波羅裁判における和解の裁定にも期待は裏切られた。さらに、祐親には愛妻の万劫まで奪われ、揚句には伊豆からの仕送りの生活の糧も絶たれた。祐経はここに至って、非道の祐親に対して尋常な精神を保てるはずはなかった。 祐経は、世間から怨嗟の的になった平家政治とその先行きに失望していたので、密かに伊豆に下り旧臣を招いて事情を話した。そして、「異常な執着心を以って、宗家の遺言を勝手に悪用し本領伊東荘を押領。それのみか数々の強欲非道な振舞いは偲びがたく、この上は祐親を討ち取り無念を晴らしたい」と諮った。 安元ニ年(1176)10月、祐経の家臣、大見小藤太と八幡三郎兄弟は、大場平太影信が、頼朝の守護役・伊東祐親の館で三日三晩開催した、頼朝を囲む関東武士の宴会と狩の酒宴の帰り際、館を出てきたところで矢を放った。しかし、大見のその矢は祐親には当たらず、不運にも八幡の矢で祐親嫡子、河津三郎祐通が射落されて死んだ。この河津三郎こと伊東祐通こそ曽我兄弟の父であった。 伊東荘をめぐる祐経・ 祐親の従兄弟同志の宗家争いがもとで放たれた矢によって、不幸にも 祐親嫡子の祐通を死なせてしまったことが、曽我兄弟の父の仇討ちの直接原因となった。 誤って殺された河津三郎祐通には、三人の子があった。長子は女子で、長男は一萬丸五才(後の十郎祐成)、二男は筥王丸三才(後の五郎時致)で、再婚した母の夫、工藤・伊東一族の曽我祐信に養育され、兄一萬丸は十五歳で元服、弟筥王丸は13歳まで箱根の別当行実の弟子として育てられ、十七歳のとき北条時政が烏帽子親となって元服した。 兄弟は、頼朝のお気に入りの大名になった祐経に近づいて下調べをしたり、祐経の生命を狙おうとしたがうまく果たせなかった。 しかし、建久4年5月28日、頼朝が富士の裾野で諸将と数万人の兵を集めて催した巻狩り中の仮屋で、雨の闇夜の中を祐経の宿所に討ち入った。酒宴で前後不覚に寝込んでいた祐経は仇討ちとして暗殺された。兄の祐成は先に討ち取られたが、弟の時致は、祐経暗殺後に頼朝の宿所をも襲いその後数人に取り押さえられた。 頼朝は祐親孫の祐致を訊問しその心根と勇気に感銘し涙を流した。召抱えようとも考えたが、暗殺された祐経嫡男犬房丸九歳(伊東左衛門尉祐時)が仇として頻りに願い出たため祐時により富士野の松ヶ崎で首が落とされた。 曽我物語は日本文学に名を成し、また能・歌舞伎の花形となった。三大仇討ちのひとつ。一富士(曽我兄弟の孝行)、二鷹(赤穂浪士の忠義)、三茄子(荒木又衛門伊賀越え・義) |
〔3〕深層・真相 曽我事件と「北条執権」の予兆 --源氏頼朝政権の奪取を狙った「平姓・時政」の野望-- いつの時代でも「歴史の真実」は、しばしば勝者側によって都合のよいように書きかえられ、色鮮やかに着色され、また不都合なところは除かれる。勝者の残した歴史は、ほとんどの場合、すべて勝者が正しくて、敗者は極悪・負けて当然とされてしまう。その視点で見るとき、北条氏が残した鎌倉幕府の正史とされる「東鑑」も、例外とはなりえず、当時の幕府内部の真相、特に北条執権誕生に至る実情は、隠されたままと考えねばならない。 曽我事件は、近年では曽我兄弟による単純な仇討ち事件ではなかったとされる。それは祐経が頼朝側近となって約10年後に起きた、北条執権誕生につながる北条氏によるクーデター路線のはじまり、第一号事件であったことが今日広く語られるところとなった。すなわち、曽我兄弟の仇討ちを計画的に利用した、北条氏による将軍頼朝と側近の実力者工藤祐経の暗殺事件であったという。いわゆる「源氏頼朝政権」転覆のクーデターである。 そこには、一つには源平の合戦以前からの狩野荘、楠美荘、伊東荘まど伊豆国の圧倒的な範囲を占める伊東家領地の支配権をめぐる 祐経・ 祐親の深刻な抗争があり、他の一つは、京の朝廷に対する外交的リーダーシップを軸とする路線対立があった。 祐経は20年間も皇居に勤めて朝廷の役人・武者所一臈・左衛門尉としての経歴を持ち、鎌倉新政権の中にあっても朝廷からパイプ役とされた。幕府の政権運営の中で京の中央政界との交渉・付き合い方に弱点を持っていた鎌倉新政権の頼朝は、祐経の情報、人脈、実力を専ら頼りにし、側近として信頼し積極的に活用したのだった。 源為義の時代には副将軍といわれた武蔵国工藤の武藤頼氏を出すなど歴代源氏の家臣であった武家の藤原氏。その宗家・工藤祐経が、京から帰還し伊豆国伊東家の総領として支配する一方、祐経は、頼朝側近としても日の出る勢いであったので、当然、幕府開府前後の10年間の頼朝周辺の政治は、専ら頼朝と祐経を中心とした新政権の観を呈していた。 そこへ、頼朝から歴代源氏の家臣の家として祐経はじめ伊東家一族への恩給は続いた。祐経は左衛門尉のあと左衛門少尉、日向国地頭、伊東氏本貫地伊東荘のほか全国に一ヶ所づづとやがて二十数ヶ所の領地に及んだ。 実亜、治承四年(1180)、頼朝が源平の合戦を旗揚げする以前は、伊東荘などの歴代伊東氏の領地と伊豆国の支配権は、伊豆国随一の豪族であった伊東入道 祐親の元にあった。その祐親の支配力は、伊東荘など楠美荘を京の平家に寄進して「領家と宮家の権勢」を取り込んだ支配力であった。 祐親は、何らかの理由、おそらくその一つには、祐親が、宗家祐経の楠美荘を横領し、その問題の伊東荘など楠美荘を京の平家に寄進して登記し正式の寄進地荘園とすることで、平家の強い庇護を受けるようになった際、伊豆の在庁官人の立場にあり京の朝廷官僚との交渉や事務手続き面で経験があった時政が、祐親を支援して協力関係ができ、祐親、時政双方が平家から認知され、強い結合ができあがったこと。そのニつは、祐経と祐親の間で京の六波羅裁判に出廷して「伊東荘の所有権」を争った訴訟事件対策における協力関係で北条氏に好を通じ、長女の頼もしい娘婿として北条氏を選んで姻戚を形成した。北条氏は、その祐親の娘婿として伊東家に近づき、祐親が京に3年間の大番の勤めに出て不在の時も伊東荘に出入りして祐親の弟分として振る舞い 、祐親を支援しいた様子が窺える。このように、伊豆国と伊東荘は、豪族祐親と祐親を後ろから支援していた北条時政の支配体制の中にあった。 しかし、祐親は、娘八重姫と頼朝の結婚の中を割いて一子千鶴丸の命を奪い、石橋山の合戦では平家の将として頼朝を攻め、富士川の合戦で義経軍に捕らえられ、伊豆に戻って頼朝に許されたが後、それを潔しとせず自殺した。ここに、「平家家臣」となっていた伊東氏は滅び、その伊東荘などの伊東家の領地は一旦頼朝の手に帰した後、再度、頼朝によって歴代の「源氏家臣」伊東宗家・祐経の所領として返還されていた。 また、頼朝と戦って捕らわれ遂に自害した伊東祐親と北条時政とは、共に平家家臣として姻戚関係で強く結ばれ、数十年にわたり伊豆国で苦労と成功を共に味わってきた兄弟のような親密な関係にあったことが想像される。娘政子が頼朝に走り、やむなく頼朝の舅として頼朝に味方して源氏の鎌倉幕府を開いて以後も、伊豆国における良き時代を時政・政子は片時も忘れることはなかったと推察される。 まして、将軍」とはいっても、頼朝は、平家時代の伊東祐親と北条時政の支配する伊東荘に、当時14才の少年の身で流人として預けられ、 祐親と時政は、守護・監視役として約20年間も一緒に世話をして生活してきた間柄であった。時政・政子親子には、頼朝に対して他人が畏れたり恐縮するような気持ちは少しも無かったのである。 このように、政子を通じて頼朝の舅となった北条時政にとっては、鎌倉幕府成立前後の10年間は、その活躍と苦労に比べ、あまり気分のすぐれた時節ではなかった。何故なら、いまや頼朝に実力側近として常に付き従い、ますます影響力を高める工藤祐経の輝きの増大を傍らに見ながら、 かって祐親と利害関係を一にして、家族同然であった時政は心中穏やかではおられなかったと思われる。 このような鎌倉幕府の内情を背景にして、曽我兄弟事件は起こった。しかも富士の裾野で展開された幕府の公式の軍事演習(巻き狩り)の後の、酒宴の夜に頼朝と祐経の宿舎が共に襲われ、祐経は暗殺された。頼朝は幸いに運良く助かった。この夜襲は、周到に計画され、幕府内に強力な支援者いなければ成功できない事件であったという。 今は亡き祐親への思いと頼朝・祐経を憎悪する時政の強い危機意識が、巧妙な曽我事件を周到に計画させ、鎌倉幕府の実力者祐経を除き去る暗殺を首尾良く実現させたという。 この曽我事件を契機に、それまでの鎌倉幕府の空気、流れは一変した。祐経に代わり主役となった時政の権勢が前面に出るようになり、やがて相模川橋完成祝い帰り時の頼朝の「落馬による変死」、その後、北条氏による「鎌倉御家人たちの連続的な討伐」が発生するのである。したがって、近年の歴史研究者は、曽我兄弟を利用した仇討ち事件は、政治的には北条執権の誕生につながる平姓北条氏による、頼朝と側近祐経中心の源氏政権の打倒、反革命・クーデターであったとみることができると言う。 北条執権の正史は、伊東氏宗家の「家督紛争の被害者」であり、且つ「曽我事件の被害者」でもあった工藤祐経を、専ら加害者・悪役としてきた。しかし、その真相は相当異なっていたようである。頼朝による源氏の革命政権ではじまった鎌倉幕府は、祐経の暗殺によって頼朝を守護する「誠実な防波堤」を失い、やがて「将軍頼朝の変死」と「鎌倉御家人の連続粛清」が勃発。遂に源氏の鎌倉幕府とは名ばかりの、平姓「時政・政子による北条政権」に変質していったと見ることができよう。 |