<鹿児島の伊東家>
高山の伊東氏


〔肝属郡肝付町〕

「家系譜見合」・「家筋糾左之通」古文書(写
         著者:7代伊東佳太郎(温山祐伴) 天保15年(1845)8月10日82才
            提供者(編集):伊東司郎氏(第11代豊志四男) 下し文:同義息


はじめに  <ガン闘病6年の褒美>休館中 幾つもの「奇跡」と感動
 ”思えば出(イズル)”
 「高山の伊東氏」と鹿屋の伊東氏 「霊界の出会い」
 公開情報に見る「高山の伊東氏」(系譜と履歴)
 江戸時代後期(天保8-15年)
 高山当主「伊東温山祐伴」が残した家系調査と記録(新規公開)
 「伊東源右衛門(次郎太)および同新之丞の話--「鹿児島の伊東家」
 伊東家系図(初代清右衛門正祐~10代嘉左衛門祐隆)
 「家筋糾左之通」(書き下し文写)著者:第7代伊東佳太郎(温山祐伴)
 175年後再発見!
 「高山の伊東家」の別れ口と「正祐」の実像
 伊東元帥流(上清水馬場)と高山伊東氏系譜の接点
 調査で注目した視点と「正祐」の実像
10
 高山伊東氏始祖「右衛門二男金法師」、「人質交換」で高山居住
11  平成20年 再び「家筋問答」(メール・概要)(準備中)







はじめに  <ガン闘病6年の褒美>休館中 幾つもの「奇跡」と感動


 平成15年(2003)10月、「伊東家の歴史館」のHPを開設して以来やがて10年を迎えようとしています。この間、当サイトを利用頂いたり、楽しんで下さった多くの読者の皆様に深く感謝申し上げます。

 昔から仏教の教えは、人生は「生老病死の間」と端的な言葉で諭してます。
筆者の最近6年間、中でも4年間は、古希と喜寿の狭間の「老と病」の段階に進んで、不運にも「ガン手術」とその「後遺症対策」という厳しい境遇に見舞われました。このため、心身ともにストレスを軽減する必要が生じ、その後歴史館の更新活動はほとんど開店休業状態でした。
 この間、多くの皆様に各種のメールや貴重な情報をご提供をいただきましたが、筆者として適切な応答ができず、失礼してしまったことが大変残念でなりません。

 ところが、近年、この
「伊東家の歴史館」のHPが、言わば「縁起の法」を発動して、ガンと闘病中の暗夜に幾度も流星が輝き、私の行く手を照らし出し、勇気と感動を与える不思議な出会いがありました。その中の一つが「高山伊東氏からの素晴らしい贈物」でした。

 これまで、高山の伊東氏の初代「正祐」の実像に関しては、不明のまま「未解決の問題」として保留にしておりましたので、調査の依頼人である高山の伊東さん(s.itou)には申し訳ない気持ちでおりました。幸い、最近少し体調の緩和が見られたのを機に、
これまでとは異なった観点で改めて探索した結果、新たな文献の出現と発見に恵まれ、この殆ど絶望的と思われた課題を解決することができました。初代「正祐」の家筋と実像の解明は、江戸時代の先祖方に始まる難問・課題でありましたので、このたび当歴史館を通じ目出度く解決できたことは、s.itouさんに留まらず、ご親族関係者、伊東家の先祖の方々も喜んでいただけるのではないかと思います。

 「高山の伊東氏」の家譜史料中に展開された「鹿児島の伊東氏」に関する情報は、多くの関係者にとって有益な歴史情報となると思われるので、このたび提供者の許可を得て「高山の伊東氏の由来」を一編にまとめ、「伊東家の歴史館」の目録棚に掲載することに致しました。
多くの読者のご利用をお勧めいたします。




 ”思えば出(イズル)”
 「高山の伊東氏」と鹿屋の伊東氏 「霊界の出会い」


 一つの感動的な事件をご紹介いたします。
それは、四年前平成20年(2008)12月6日、「伊東家の歴史館」が受信した、現福岡県糸島市在住の伊東(s.itou)さんからのメールで始まりました。
 お問合せの最初のメールには、「伊東家の歴史館」に掲載した系図の引用に合わせて、次のような問合せが発信されていました。



送信者:"s.itou"

宛先:"ito family"<genta06@forest.ocn.ne.jp>

 貴ホームページに記載された「高山伊東氏の系図」は、細部については省略されていますが内容は正確です。

 ①初代「正祐」は、HPの前段に「寛永十年以前に日置吹上町から高山に移住。祐紀の子祐清、またはその一族と思われる」とあるが、この推定が気になっています。どのような根拠による判断でしょうか。

 ②当家では、「正祐」以前の先祖の系譜は消失により不明となっています。正祐の家筋とその関連情報があればを教えて下さい。

 ③鹿屋の伊東様の先祖「伊東源右衛門」(本家)の名前と会話が、先祖佳太郎が書き残した「先祖探訪記事」の中に出てきます。過去双方の間で往来があったのでしょうか。もし、あれば教えてください」


 ④鹿屋の伊東様の系譜が残っておれば、教えてください。

 ⑤わが家には昔からの系図が残されており関心はありましたが、最近インターネットで「伊東家の歴史館」を知り、わたくしも詳しく調べてみようという気持ちになり目下勉強を始めたばかりです。わが家の系図は、古文書で手に負えないので翻訳を専門家に頼んでいますが、まだ半分しか読解できていません。
失礼を省みずお問合せをした次第です。宜しくお願いいたします。



 その後、この件に関する情報交換と検討は、双方の熱意によって超スピードで進展し、平成21年(2009)1月29日までの約2ヶ月間における往復20回のメールの交信を通じて行いました。

 そして、筆者の見解として、鹿児島の中における高山伊東家の家筋と系譜の調査結果、その参考史料、それらの解説等を加えお返事を(回答)致しました。
 ただし、高山初代「正祐」の大よその家筋以外の実像については、具体的な史料によって確認できなかったため、この段階においては、残念ながらご期待に応えられず未解決のまま交流は一旦終了しました。




 公開情報に見る「高山の伊東氏」(系譜と経歴)
鹿児島県姓氏家系大辞典 (角川書店)・「さつま」の姓氏 河崎大十(高城書房)

肝属郡高山町新富十文字馬場に、寛永十年以前に薩摩国阿多郡伊作(吹上町)から移った伊東氏がある。
通字は祐。分家は七代祐伴の三男祐治が文化五年に許されている。
初代清右門・正祐 元和二年の高山宗社四十九所大明神宝殿狛犬の作者で、「島原の乱」に出陣している。正祐の出自不詳。
三代九右衛門・祐智 寛文六年高十二石、元禄四年曖になる
五代嘉左衛門・祐積 明和八年に三十九石余。
七代佳太郎・温山祐伴 文化二年に七十三石。郷土年寄。「高山名勝志」編集筆頭調掛など文武両道の人。 「感傷雑記」・「士踊稽古心得」などの著書がある。
八代嘉平太祐春 医者
十代嘉左衛門祐隆 明治28年高山村の五代村長、七代・十一代村長。
十一代豊志 昭和22年高山町三代町長、
十二代道郎 気象庁勤務。
系図 正祐ー某ー祐智ー某ー祐積ー祐衷ー祐伴ー祐春ー某ー祐隆ー豊志ー道郎
〔肝属町へのアクセス〕http://kimotsuki-town.jp/1119.htm


 江戸後期(天保8-15年)
 高山の伊東温山祐伴が残した家系調査とその記録(新規公開)


 ところが、この間平成21年(2009)1月12日には、s.itou様から、江戸時代後期(天保8年~天保15年)、今からおよそ175年前の高山伊東氏のご先祖から発せられた、言わば「霊界からのメッセージ」とも譬えられるような、伊東家の系譜に関する史料(写)を収めた「郵便物」が、わたくし宛てに届けられ提供されたのです。
 不思議なことに、それは、わたくしが10年以上前、HPの準備活動をスタートして以来、断続的に調査し探し続けていた自らのテーマに関する内容だったため、「最高の贈物」とも言える内容でした。 

 実は、関西在住のわたくしが、ホームページの基礎となる伊東家の歴史調査を行なっていた平成十年(1998)頃、数少ない帰郷の機会の隙間の時間を活用して、鹿児島の県立図書館、鹿屋市の市立図書館、日南市立図書館などに幾度か足を運び、高山伊東氏について鹿屋や鹿児島の伊東氏とのつながりを真剣に調査した履歴があります。

 其処には、わたくしの心を熱くして突き動かす昔からの大きな動機の存在がありました。
それは、幕末生れの祖父(伊東源右衛門の四男友吉)が語っていた話として、明治生まれの父親勇吉から「高山の伊東氏は親戚らしい」、「昔、祖父たち兄弟は、しばしば高山に立ち寄っていたらしい」という情報を、この自分の耳で聞いていたからです。子供心に「昔、親戚だった」と聞くと、特別な親しい感情や関心が湧いていたように感じます。
 
 そのような心情を有するわたくしの手元に贈られてきた、そのs.itou様からの郵便物には、以下の三種の家譜史料がお手紙に添えて同封されていました。
 また、これらの古文書の解読、書き下し文は、s.itouさんの義理の息子さんのご協力とご活躍があっての賜物と感謝の添書きがありました・。


高山の伊東家に、江戸時代天保年間から書き残されて伝来する「系譜見合」 という、伊東家譜に関する古文書(写)。

寛永年間から今日までの高山伊東家の家系図(パソコン復刻版)。

天保八年の先祖伊東佳太郎(温山祐伴)による「高山伊東家のルーツ探し」、および「伊東家の家系」の調査結果と経過を記録した、「家筋糾左之通」という古文書の解読版文書(写真)
全62ページ。


 これらの文書を拝見したわたくしは、 「本当に、こんな奇跡が起きるものだろうか」と、その日は感動の震えが止まらない状態でした

 殊に、「家筋糾左之通」の文書は、当時の高山伊東佳太郎の問いかけや呼びかけが契機となって、薩摩伊東氏の三つの家筋の先祖伊東源右衛門、伊東嘉左衛門(佳太郎祐伴)、伊東新左衛門(新之丞)が、「幾たびか2人、3人と集って会合を持ち、お互いの兄弟筋の家系のについて問答を重ねて探求していたという、驚くような事実を赤裸々に伝える古文書を含む経過史料であったからです。源右衛門と新之丞は、島津藩の役目柄(横目付)、大隅各地の巡視(見回りや)・政治の御用聞きの仕事の機会を利用して、高山に立ち寄っていたという。

 そこに想像される光景には、わが家の先祖は誰か、何処からやって来たのかなど先祖のことを思うこと、親戚・一族のつながりを知りたいなど、現代の私たちと変わらない当時の先祖たちの温かい人間性や微笑ましい振る舞いが見えてきます。
 そして、175年以前という遠い先祖の映像が、極く身近で親しい存在に感じられて、「江戸時代の先祖の姿が、生き生きと現代に語りかけてくる」不思議な体験を致しました。




 「伊東源右衛門(次郎太)および同新之丞の話---「鹿児島の伊東家



---「家筋糾左之通」(書き下し文写)より要約---


「伊東佳太郎(温山祐伴)の前書き」[天保8年(1838)~天保15年(1844)]

 高山の当家は、元禄の始に系図を消失いたしました。其の時分、この伊東家は単独であり、嫡庶氏族の系図の分かれ口は不明です。
しかし、鹿児島の岩崎(現鹿児島駅付近)に居住されている先代の伊東源右衛門殿は、当家と同じ家筋であると、当方の先代よりの申し伝えがあります。
 わたくし(佳太郎)の曽祖父の姉が少女のころ、右の「源右衛門殿の所へ親類のゆえに滞在したことがある」と祖父が聞いたことを、わたくし(佳太郎)は其の祖父(祐積)から直接聞いています。
この話を残した女子は、わたくしの祖父にとっては伯母にあたり、長命で延享3年(1747)76才で
死去いたしました。私の祖父は寛政7年(1795)90才で死去しましたが、わたくしは、33才の時に其の申し伝えを確かに聞いております

 右の伊東源右衛門殿の家は、今の伊東次郎太殿であると承り、人伝を以って先方へ照会したところ、その折次郎太殿がちょうど高須へこられるとの知らせがあったので、そちらへ罷り越して対話を致しました。その
「高須での対話」の概要は次の通り。


(源右衛門殿が語った内容)
①こちらの(源右衛門)家筋は、日向伊東の因家ではありますがその末流ではなく、元来は「伊藤」です。
鎌倉で、先祖祐経の住居が頼朝公の御所よりも東側にあったため、(平素、祐経が頼朝公から東殿と呼ばれていたこと)そのことに由来して「伊東」と書くようにしたものです。

 〔これに対し、高山の伊東家は、飫肥伊東が本家でありまして、鎌倉に在住していた飫肥伊東は、
島津忠久公が御下向される前のお先拭のために日向に下された家筋です。〕

②また、こちらは昔、島津初代忠久公が鎌倉から薩摩に御下向の時、御伴して鹿児島に移住した家筋です。
③この由来に拠って、この家筋を
「鹿児島中の伊東の本家」に定め置かれました。

④家紋・紋所は、高山の伊東家の紋は「庵木瓜」ですが、次郎太殿にお話したところ、「この紋は
わが家(源右衛門・次郎太)の幕の紋と同じように見えます。
定紋は「庵木瓜」ですが、日常普段は「九曜」(月に九曜)です。其の九曜も「通例の九曜」ではなくて、中の一図と国傍に九図があり、全部で十曜(十星)になっています。飫肥の伊東も同紋ですと言われたので、承知いたしました。


(新之丞殿が語った内容)「新右衛門・新左衛門流」
 鹿児島のたんとふ(現鹿児島市坂元町)に居住する伊東新之丞祐可(スケヨシ)は、島津藩の目付(横目付)で、志布志から高山、そして内之浦まで定期的な巡回視察を任務にされており、わたくしから、仕事の合間で暇な時を利用してお互いの先祖家筋のことを尋ねあいしたいと申込みしていたところ、天保10年(1839)11月に高山の当方へ御出で頂き、お互いにやり取りした「高山での対話」の主な内容は次の通りです。

                               「戦国伊東家の敗北により、日向飫肥を出奔後」-----
①こちら(伊東新之丞)の先祖は、京都の宝町に居住して馬医を営んでいました。
②その後、新納武蔵守忠元殿(大口城主)の家臣として、大口に住むことに成りました。

③この伊東家には、男子三人がいて、長男は伊東新四郎殿(九兵衛・休兵衛)の家筋、二男は高山に行き、三男は新之丞殿の直系の先祖で、(最大の理解者であった)武蔵守殿が亡くなられた後に、大口から両家共に鹿児島(城下士)へ移られました。
④本家の新四郎殿方とは、嫡庶の交わりを以って近頃までは段々と合力等を致してまいりましたが、高山の方とは交わりが途絶えました。

⑤新之丞祐可(すけよし)の親父も「新之丞祐熙(すけてる)」と申す人で、祐可が幼年のころ死去されました。その祐熙の姉妹に「冨満彦左衛門の内室」となった人がいて、伯母様に当るその女性から祐可が幼年のころたびたび申し聞かされたことは、
  ○「其許の家筋は、伊東新四郎殿が本家で、先祖の代より大切にしてきました。
  ○高山の伊東家も兄の家筋になるので、そのうち高山にも行って両家の交わりを代々疎遠にならぬよう致さねばなりません。」と返す返すも忘却してはならない旨、折りある毎に教戒されました。

⑥「婦人の言は信ずるに足らざる可きこと」というのが世の通例でありますが、その祐可の伯母に当る女性は、男同前の性質にて、記憶強く、祐熙(すけてる)死後祐可幼年の時期に家内の経営が乱れたことがありました。「家の金、宝物、高刀などが散乱」してしまいましたが、その時に臨んで、この伯母が計略をもってこれらを取り返したこともあります。家筋の嫡庶等のことは大切なことであり、「後代の交わりのことまでも心に留め」遺戒致される義心の方ですので間違いない筈であります。




























 (高山)伊東家系図(初代清右衛門正祐~10代嘉左衛門祐隆)


6   「家筋糾左之通」(書き下し文写)

「家筋糾左之通」

著者:第7代伊東佳太郎(温山祐伴)

<江戸時代後期(天保8年-15年) 高山伊東家に残された家系調査>

前書き <薩摩藩記録奉行の白尾斎蔵殿への依頼>
はじめ、文化11年(1814 佳太郎51才)9月に、薩摩藩記録奉行の白尾斎蔵殿がこの村に廻勤された時に、伊東次郎太殿との系譜見合わせを依頼しその約束がされていた。ところが白尾殿が江戸詰めで行かれた後病気をされ、帰国後遂に死去されたため全く手がかりを失い今日まで黙止していた。
<薩摩藩記録奉行の伊地知小十郎季安殿への依頼>
最近、薩摩藩記録奉行の伊地知小十郎季安殿が、諸家の系図に精通していると聞いたので、人伝を頼み次の通り手紙を差し出した。
前編 天保8年(1837)   伊東佳太郎(75才)の記録 「季安殿への調査依頼」
後編 天保15年8月10日 (伊東佳太郎)温山祐伴(82才)の記録 「季安殿からの回答」












7
 175年後再発見!
「高山の伊東家」の別れ口と「正祐」の実像

〔1〕「鹿児島の伊東家」の概要

<始祖:伊東祐明(右衛門)>

 祐明(祐審)は、右衛門、晩年「雅楽介」とも称した。日向都於郡城の伊東家において、伊東祐尭--祐国--祐武--左兵衛佐・加賀守(祐安)と続く。木崎原の戦いで戦死した加賀守(祐安)の弟・右衛門佐(祐審・すけあき)で、加賀守の家督を承継したとある。

 天正5年12月「伊東義祐の豊後落ち」により伊東家敗戦の後、島津家臣となり戦後の伊東家の継承者・嫡家とされて義久・義弘に仕える。右衛門佐は、天正9年水俣の合戦、天正15年豊後陣肥後関城の決戦に軍功多く、太閤秀吉が薩摩に御動座の砌は大口城に立て篭もり降伏しない新納忠元を説得するため、島津義弘の使者を勤め下城させたことが「本藩人物誌」に見える。

 また、朝鮮の役・出陣を巡る事件の島津歳久切腹の折は、鹿児島竜ヶ水において、「伊東雅楽介」を称して、主家島津家臣団24名の殉死者の一人となり武家として有終の美を飾った。時に65才前後の老臣であった。

<嫡男:七右衛門・弟:孫八郎>

 祐明には二男一女があった。嫡男七右衛門は、官名で喜左衛門・喜右衛門を、次男孫八は次左衛門と称した。また、薩摩入国以前日向国では喜右衛門は「祐命」・「三河守」、次左衛門は「金法師」と呼ばれた。そして、
七右衛門は嫡家として祐明の家督を継ぎ、孫八(次左衛門)は、伊東加賀守の子源四郎の家督を継いだ。これは、源四郎が川崎駿河守を称した伊東一族の伊東平右衛門家の養子となることが約束されていたことによる。

 「中郷史」(鮫島政章)および「さつま」の姓氏(川崎大十)等の記録によれば、伊東七右衛門・・孫八の兄弟は、「関ケ原の合戦」で戦死(記録によっては「庄内の乱」戦死)。

<伊東家断絶の危機を救う--島津義弘の采配>

 関ケ原の合戦で嫡家・伊東七右衛門・孫八の兄弟が戦死したことで、惟新公(島津義弘)は、薩摩伊東家(嫡家)の断絶を避けるため、祐明の三人の兄弟の一女と、親戚の伊東流「田原五郎左衛門」(祐紀)との間に生まれた子・田原彦方を御前に召出し、「新六」併せて「祐貞」の名を与え、命により伊東七左衛門(七右衛門)家の養子とし家督を継がせた。
 
 その折、義弘は祐貞の御腰物(長2尺7寸)および国俊の両脇差、併せて薩州千台(川内)のうち高城長野間に多くの采地を与えた。時に元和3年6月15日加治木御支配所の名寄帳に登記された。また、元和3年6月6日祐貞15才の時、義弘の命により祐貞直父・田原五郎左衛門を後見と為し、伊東祐貞を「薩摩中郷の押役」に任命した。これにより薩摩中郷は薩摩伊東氏の拠点となった。

<伊東家の職種・役職、家格等>

 右衛門佐(祐明)は、伊東家始祖で嫡家、義弘の副将、ご家老職。その子七右衛門は喜右衛門を名乗って、本城に仕官し島津忠恒(家久)公御供御納戸役にて朝鮮渡海。その子祐貞(新六・祐種)は、御屋形奉行・御船奉行・各地の地頭、目付役。

その後、伊東家は中郷押役、歴代中郷與頭役、曖役、外国船取締り役。また代々僧侶も出たがこれは、孫八(金法師)が、日向の都於郡時代、真言宗の名刹一乗院の弟子「金法師」であり後に還俗したことによると思われる。特に異国船取締りは20年以上数十年にも渡り、伊東家には「異国船人数賦帳」(享保7年「西暦1722」2月29日)の記録が残されていた。

 薩摩伊東家の嫡家とされたこの系統は、初代祐明~2代喜右衛門(七右衛門)~3代祐貞と続き、幕末におけるその子孫は「伊東源右衛門」とされ、島津藩における家格は「小番太刀」であったと記録されている。(「諸家大概」および「本藩人物誌」)
 しかし、薩摩藩が「薩軍と官軍」という「敵・味方」に分かれて戦った慟哭の西南戦争とその悲劇的な結末を反映して、詳細な記録は消失して残っていないと言う。




             

〔2〕「諸家大概」の右衛門と大炊介

                     「キーワード」--木脇の伊東氏

 永世9年(1512)伊東第7代大和守尹祐の命により、尹祐の娘が島津第12代忠治にお輿入れの時御伴し「島津家臣」。戦国後期の伊東家隆盛の時代に義祐に呼び戻され日向に帰参し「伊東家重臣」.。その履歴は、①伊東家臣⇒②島津家臣(島津家興し入れ時島津家臣))⇒③伊東家臣(義祐の重臣)⇒④義祐の「伊東崩れ」で、島津氏に降伏・後日許されて島津家臣復帰。
 この間、④日向に帰参した大炊介は、家内の政権抗争に身を投じ、「武州の乱」や「左兵衛佐の乱」、「若衆騒動」などで伊予国や薩摩などへ幾度か避難(逃亡)し、波乱万丈・八面六臂の活躍をした軌跡が見られる。


               
 
  <同一人物の二人の映像>

      「大炊介祐兄」(越前守)は島津家臣時代 「大炊介」(右衛門)は伊東家臣時代



 「伊東右衛門」


①伊藤(東)七左衛門家は日新公(島津忠良)巳前よりも御奉公申候かと存候  本は小名字井尻にて候。貴久公(島津義久)小野え御動座の時御供の内に彼 先祖井尻九朗次郎祐宗と申者有之候此母宇多氏の女。
 同前に御供申候伊東右衛門。

②「貴久公(島津義久)小野え御動座の時御供申候「伊東右衛門」と申者は維新様(島津義弘)飯野に被成御座候時高城地頭被仰付候。

③其子「喜右衛門」より代々近年は「肥前」迄地頭被仰付候。肥前孫「伊東源右衛門」にて候。此家「御家中にて嫡家」と申事候。」

④貴久様小野え御動座の節御供仕候木脇大炊(大炊介祐兄は次郎衛門祐倫 5代の祖にて御座候)は、伊東次郎右衛門先祖にて候。五右衛門は始め右松にて候。

④「伊東刑部左衛門祖父川崎駿河と申者、御家に参伊東を名乗申候由承候。

⑤伊東系図余多此節持参仕候間可奉備。尊覧候(伊東)肥前は御家中にての惣領の様に申由承候得共系図の表にては難見分候。」


「木脇大炊助祐兄」

①木脇も伊東一家にて、木脇越前と申者貴久公御代に参り候 其子木脇伊賀入道正徹は、貴久公 歳久公江為御後見ト被相付候 其子刑部左衛門。

②慶長5年大阪御跡に相残候人数之内ニテ候故為御褒美御感状 御高百石拝領在候五右衛門代ニ伊東ニ罷成御使役被仰付候伊東刑部左衛門祖父ハ河崎駿河ト申候  伊東ニ罷成候駿河ハ京大阪蔵奉行ナト被仰付候 其子九左衛門、其子刑部左衛門此代ヨリ初テ地頭被仰付候




 〔3〕伊東家の系図


                伊東氏系図は、「関ヶ原合戦・庄内の乱」前後で変化


      
 (前期) 「祐明(右衛門)とその子」

       嫡家 右衛門-+-喜右衛門(七郎右衛門))(兄)
                 |
                 +-金法師(孫八郎)(弟)

       
(後期) 後継:「祐明(右衛門)の娘と婿養子(祐紀)」とその子


       祐紀(祐豊)--+--祐清(祐貞・祐種)<七郎兵衛・休兵衛・九左衛門・肥前守>
                |
                +--祐季(祐知・内蔵・蔵之助・内膳)



 〔4〕祐明(右衛門)-七右衛門系図(嫡家)


             <引用:日本家系家紋研究所「伊東一族」(昭和五十八年三月発行)より>


 〔5〕祐明後継「伊東祐紀」=伊東祐豊系図
 この系図は、祐明(右衛門)の長男(嫡家)七右衛門が戦死後、その後継となった祐紀の家系図。
祐紀=実は河崎兵右衛門祐豊、伊東平右衛門祐氏の養子となり「伊東(駿河守)祐豊」
を称す。祐豊=実は河崎駿河守祐氏三男 祐豊=実は伊東源四郎祐次の三男。


<引用:日本家系家紋研究所「伊東一族」(昭和五十八年三月発行)より>



 〔6〕「本藩人物誌」に記録された「伊東祐豊の経歴」



                 
伊東祐豊 (安土桃山時代~江戸時代初期)


○祐豊は、伊東氏家臣の川崎駿河守の子「河崎兵右衛門祐豊」。伊東平右衛門の養子になり、伊東駿河守祐豊また伊東駿河守藤原祐豊を称す。伊東平右衛門祐氏は伊東六郎左衛門祐国二男「伊東加賀守の子」。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。飫肥藩士で後に「薩摩藩士」伊東氏。慶長から元和年間には「川崎氏」を称す。京大坂奉行や唐船奉行などを務める。島津氏仕官時の石高は1千石。諱は祐豊。通称は駿河守。 後に、寛永13年、領地の襲封に際して、飫肥藩主祐久の計らいで3,000石で分地・分家が許されて徳川幕府旗本家となる。

○川崎駿河守(河崎祐長)の長男であるが、伊東平右衛門祐氏の養子となる。なお、飫肥の実家は弟の「大学」が相続したという。慶長元年に稲津重政(掃部)と不和となり、父(祐長)とともに飫肥藩を出て大坂に滞在していたところ、島津義弘に召しだされて1千石で仕官し川崎氏を称す。慶長19年当時、新納右衛門佐と京大坂蔵奉行を務め、「大坂夏の陣」の際に新納と加治木人数差出を担当する。寛永元年に川崎氏から伊東氏に復姓した。寛永7年に吉田次郎兵衛と唐船奉行に就任する。子は九左衛門祐秀で嫡孫は刑部左衛門祐平。
自宅に藩主島津家久が二度来訪し、「芦谷」という釜を賜る。和歌一首付く。

 「釣らるとも ふすへらるとも 心から よしやあしやは 人の言なし」

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〔なお、飫肥藩の記録によると、その32年後の寛文8年(1668)祐豊の死去に伴って当時5才の祐豊子の祐賢が家督を引継ぐ。元禄2年(1688)には領地が改められ、日向国にあった領地2,000石は上知されて幕府領と成り、幕府から蔵米を賜る旗本になる。元禄10年(1697)7月26日には、2,000石の加贈があり近江国へ領地換えされ、5,000石を拝領する旗本になった。祐賢は、宝永5年(1708)3月8日に43才で死去。
(この項は筆者による追記)





              

 〔7〕「島津家臣団人名録」より---人名キーワード探索


    祐審====1577祐武子 祐明・大炊・右衛門

祐命祐審子七郎右衛門喜左衛門三河
    祐貞祐命子肥前

祐種祐命嗣田原兼喬子七郎兵衛源右衛門

孫八郎祐審子金法師次左衛門

祐知孫八郎子仙右衛門―――-高山伊東氏祖

祐正祐知子祐亨祖藤五仙右衛門―伊東元帥(祐亨)

祐紀祐審嗣雅楽---------------伊東祐豊

祐清祐紀子七郎兵衛

祐季祐清子内蔵---「祐季」は、祐清の子「内蔵」(内膳) 内蔵は、「孫八郎」継「祐知」

 ●飫肥藩の史料には、祐知を「伊東勘解由二男十左衛門祐知」と記載。

    
<朱記>筆者が説明を追記


  伊東元帥流(上清水馬場)と高山の伊東氏系譜の接点

(1)、伊東元帥家の系図は、右衛門佐---次左衛門(金法師・孫八郎)---祐知---祐正---と記載されており、孫八郎すなわち金法師の子として「祐知」となっているので、上記〔7〕「島津家臣団人名録」「祐知孫八郎子仙右衛門」に一致する。

(2)、元帥同系譜には、「祐知」の肩書として「志摩助」、「勝右衛門」、「仙右衛門」とあるほか下記の「祐知経歴」が記録されている。

太守島津光久公が、幼少の時「一家を率いて御守役で数年江戸勤務」光久公、後にその労苦を褒めて、薩摩の入来郷裏の名栗巣に門高七十石を加贈賜る。寛永十六年七月十七日御支配所印
    ○光久公親筆一休和尚水鏡写一巻、
    ○猩々紅人羽織一領、
    ○梅の絵唐筆一幅を拝領す。
      唯、惜しむらくは、宝永二年十二月十八日の火災で水鏡写し一巻は、点焼痕       が今に残る。(宝永年間の日本列島は、大地震と大噴火の時代)
    ○承応四年(明暦元年・1655)二月四日死亡 法号傳心良英居士


(3)、また、「島津家臣団人名録」の「祐清祐紀子七郎兵衛」、「祐季祐清子内蔵」を上記の〔5〕祐明後継「伊東祐紀」=伊東祐豊系図に当てはめると、「祐知=祐季=内膳」という関係になり、伊東元帥家の系図の「祐知」は、実は伊東祐紀(祐豊)系図の「祐季」であることが分かる。ここに至り明らかなことは、祐紀の長男祐清は、金法師の兄喜右衛門の後継者「祐種」となり、祐紀二男「祐季」は、金法師の後継者「祐知」となった事情が判明する。

(4)、河崎(川崎)祐紀は、河崎祐豊であり伊東家養子になり「伊東祐豊」となったが、これらの関係を飫肥藩の史料で調査したところ、「祐種」は、別称で伊東十郎右衛門祐種、弟内膳は伊東十郎左衛門祐知とある。
なお、「祐季」の職掌・肩書に内蔵・蔵之助とあるのが後に飫肥藩において「内膳」(内蔵⇒内膳)とあるのは、
単なる記録間違いか、または「河崎祐紀」系譜から「伊東源右衛門」系譜に養子として異動するに際し、初め内蔵であったが、後に「内膳」に昇格した可能性がある。



                                「祐知経歴



 調査で注目した視点と「正祐」の実像

                     調査で注目した視点


〔1〕武士は一生を通じて、複数の名前や肩書・官職名を有する。
  名前の変化を調べる。

〔2〕鹿児島の伊東氏は、元来日向や飫肥が生国(故郷)で動乱や戦争の結果、薩摩に移ったケースが多い。従って、薩摩で分からないことが飫肥の史料で判明することもあるので、薩摩と飫肥の間の往来による二重の足跡にも注目する必要がある。

〔3〕「正祐」の探索において、注目される手がかりは、「島原の乱」に出陣していることである。

〔4〕薩摩に伊東氏の人名検索には、「島津家臣団人名録」がわかりやすく極めて有益だった。日向記や飫肥の系図や記録における人名を、この人名録につき合わせると、判明したり納得できることが多かった。

〔5〕
鹿児島の伊東家の系図と嫡家「源右衛門」の家譜は、上記の本文〔4〕、〔5〕掲載のとおり存在する。しかし、人名個々の履歴の詳細は不詳である。

〔6〕「正祐」の探索の手がかりは、「太田道灌持資流」の兵学師範であった経歴である。剣法の史料によると正祐の兄「祐種」は、別称で伊東十郎右衛門祐種、弟内膳は伊東十郎左衛門祐知とある。

〔7〕近年、飫肥城下町保存会 学芸員の長友禎治氏により公開された「飫肥藩家老・伊東氏家譜書「藤枝伝」は、従来日向記や薩摩の文献では分からない貴重で有益な史料となった。飫肥と薩摩間の人のつながりや動きが記録されており興味は尽きない。




                  
初代「正祐」の実像(結論)


〔1〕最近公開された①「飫肥藩家老・伊東氏家譜書「藤枝伝」(写)」および②伊東祐武家譜(伊東正一蔵書 伊豆道明試読)において、島原の乱出陣の準備に関して、「太守お留守故伊東左門佐殿、伊東内膳正祐正殿も仰せにより則府内に参上ありしと云う」とあり、
伊東内膳が「内膳正祐」であり、「島原の乱」に出陣を予想させる記録である。(寛永十五年))

〔2〕上記〔1〕において、正保三年以降、祐忠家に嫡子無きゆえ、祐久公へ
「伊東勘解由次男十左衛門祐知」を養子に勧めたが、お心に適わず・・・」とあり、祐紀(勘解由・祐豊)の二
男「十左衛門祐知」の記録が存在している。

〔3〕祐紀は、祐豊、兵右衛門、勘解由、長倉善左衛門、長倉近江守、笠間石見守、清武地頭などの別称があるので、理解に混乱を伴う。日向記や飫肥藩の記録をつき合わせると、祐豊=祐紀=紀伊?=勘解由=長倉善左衛門=兵右衛門であり、祐豊は伊東家の養子になったことで、河崎氏(川崎氏)と伊東氏の双方の記録が見られる。
いずれにしても、祐豊(祐紀)は戦国末期から江戸時代初期にかけて、日向と薩摩を拠点として八面六臂の活躍をしていた様子が覗える。

〔4〕最近ネット上に公開された「江島為信の儒学と兵学」(奥井康方氏)において、その文末注3項は「為信の学んだ大田道灌持資流の兵学は、飫肥または薩摩に伝来したものと考えられる。「持資流兵学師範」に為信の師と記された「伊東内膳入道玄亀」は、
「清武河崎氏系譜」に川崎兵右衛門祐豊の子として載せられた「伊東内膳正「祐冨」改蘇庵玄亀」(京都住)と同一人物であろう。「河崎私記」によれば、この人物は、もと島津家の家来であったが、禄を返し、京に住んで医業を営んだという。」(飫肥城下町保存会 学芸員の長友禎治氏によるご教示)

〔5〕以上の探索により、伊東正祐は、伊東祐紀即ち伊東祐豊の二男であり、正しくは、「伊東内膳正祐正」即ち「内膳正」の「祐正」、略して「内膳正祐」であったことが判明した。これは、始祖を同じくしていると思われる「伊東元帥家系譜」の(分家)別立て系譜において、初代祐正は、祐知の家督を継いだ別称(内膳正祐)の子「祐正」であることにより証明される。すなわち、「正祐」は俗称・略称であり、実は肩書に「内膳正」を与えられた「祐正」
であった。
祐正祐知子祐亨祖藤五仙右衛門(「島津家臣団人名録」)





     〔鹿児島の伊東氏〕



                 「伊東養子」 河崎祐豊系図


     
    祐紀=祐審嗣雅楽(祐豊)
    祐豊=祐氏嗣「河崎駿河子伊東駿河
                   


               河崎祐豊(駿河守)⇒伊東祐豊(駿河守) 
                        |
            +----------------------------------------
            |          |            |            

        
  女子 伊東九左衛門 大寺内膳玄亀 有馬勘左衛門(勘介)
                   (河崎祐)     (河崎祐)      (河崎祐


                       ▼          ▼            ▼

               <祐清・祐種><祐知・内膳祐正><新助・新左衛門>
                       ▼          ▼            ▼
                 〔源右衛門〕   初〔清右衛門〕  〔新右衛門〕
                  (休右衛門)   後〔仙右衛門〕  (新左衛門)



     
注)朱記は、説明として追加記入

     高山伊東氏初代「正祐」は、二男「内膳」。





10 「高山の伊東氏始祖」金法師---「人質交換」で高山居住



                    「伊東祐亨(元帥)家系図」より転記

金法師は、伊東家が木崎原合戦の敗戦によって一門の多くが悉く死亡。次左衛門も日向の佐土原に在って棲むが、その佐土原城も没落して、日向の志布志の諸所を流浪する。ちょうど鹿屋にいる時に、たまたま伊集院忠真の都城を拠点に起こした謀反に遭遇し、大岩田口の将となったが、忠真すでに降参したため、家臣を尽く離散させて指宿あたりに住んで潜伏した。
 その後、加治木に召し出されて、初めて島津義弘公に拝謁した。慶長九年十一月四日黒印、日向の真幸院吉田村の中に食田二十石を賜る。咄し相手としてしばしばご尊前に召される。
始めて伊東・肝付互いに人質を通じ、金法師14才で肝付氏の質となる。
「御南様のお側に侍する者」とは、蓋し、この時か。

     ---------------------------------------------------------------------

(「島津戦国女系図」より引用)

島津忠良女(肝付兼続室、御南)
永正8(1511)~天正9(1581)年辛巳9月3日<享年71歳>

<略歴>
島津家再興に尽力した島津忠良の長女。没年から逆算すると次女の島津御隅と同年の生まれとなり、双子の姉だったと推測される。長じて「御南(おみなみ)」と名乗った(「旧記雑録」家わけ1新編伴姓肝属氏系譜268「愛甲諸兵衛上書草案」など)が、語源不明。
大隅の有力戦国大名・肝付兼続に嫁ぎ、男子2人(?)女子3人を産み薩隅の安定に貢献したが、後に島津氏と肝付氏が対立するとその板挟みとなり、辛苦を舐め尽くした。その後肝付氏は島津氏の配下となったが、実子・良兼に男子が無く、肝付氏の後継者問題を差配したため、実質的に肝付本家の衰亡を招いたとも言われる。見ようによって賢女か悪女か見解が別れる人物であろう。
父・島津忠良の死に際して息子・肝付良兼と共に菩提寺を建立するなど、父親とのつながりが非常に強い女性であったと思われる。


金法師と高山の接点

 --高山の伊東家の由来と人質「金法師」の滞在先--

伊東氏から肝付氏への「公式の人質」として「御南様の逝去」まで滞在した金法師の居宅跡は、後の高山伊東家のであった可能性がある。。

この人質問題を演出したのは、伊東家没落後であるから島津義弘と思われる。その狙いは、「伊東家・肝付両家の和解」工作を兼ね、実は、肝付家を完全に島津に服属させる手立てとして肝付家当主のもとに嫁がせて、今や深刻な苦海に沈んでいる御南様をサポートするため、お側用人(お話相手・連絡役)として送り込んだと推察される。この島津家の苦悩の事件が高山伊東家の原点にあり、僧職でもあった金法師は、優れた働きによって御南様の深い信頼を得たことで、金法師とその家系は、高山に伊東氏の二男家として一家が建てられ、なおその御家は島津家から長く大切にされてきたように推察される。


               <伊東氏VS肝付氏>空砲を使った偽装の戦闘


□伊東氏弱体化と島津氏の侵攻で、永年の同盟国肝付氏と急速に関係が悪化。

①1575(天正3年)12月7日 肝付氏は伊東氏に義絶を通告。(国史)(上井覚兼日記)
 
②1575(天正3年)12月13日 伊東義祐、河崎駿河・同紀伊を派遣し、故肝付義兼の妻で伊東家出自の高城夫人を実家に引き取る。(国史)(上井覚兼日記)
 
③天正4年(1576年)1月、「島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案」によって、「伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘」を行った。伊東方が戦場での伝達の行き違い・不徹底によって、両家の約束に反し実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。(日向記)
 
④一説には、この事件は、祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったとも言う。伊東氏の衰退期には、米良矩重や落合兼朝などが、伊東祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。祐松は、伊東家没落時は、義祐に従って豊後国に退去。翌天正6年(1578年)に日向国の三城で死去した。


  ★上記の河崎駿河・同紀伊は、正祐(祐知)にとっては祖父(源四郎)と父(祐豊)。


11
 175年後、平成20年再び「家筋問答」(メール)(準備中)


   
(参考史料

①伊東祐豊(祐紀)流 伊東家系譜

②島津家臣団人名録 祐審流抜粋

  孫八郎・金法師・祐知・祐正・祐紀・祐清・祐季・内蔵(内膳)

③仙右衛門流「祐知」系譜記録(伊東元帥家)

④「薩摩藩士 伊東祐之家系図」

    ⑤飫肥藩家老・伊東氏家譜書「藤枝伝」(長友禎治氏)

⑥「河崎家系譜」(日南市立図書館)

⑥江島為信の儒学と兵学(奥井康方)