伊東家墓所 千年の旅
<空海の世界>


--平安時代~鎌倉時代~室町時代~安土・桃山時代~江戸時代~明治時代--

伊豆国~日向国~日南・飫肥藩~高野山・奥の院~薩摩(鹿児島)


         


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墓所巡礼・発見の旅---

現世の政争・ケンカの彼我分別で東西南北離れていても「御霊の家」は皆同じ。


<伊東家の墓塔>

神仏混交 仏式
神社+五輪塔 五輪塔
(日向⇒「伊東塔」)
工藤伊東氏は、奈良の古より「神社の藤原氏」神社にまつる一方、寺や墓地に埋葬した。五輪塔灯篭も神仏混交の造形。
工藤・伊東氏は平安中期から後期にかけ京から伊豆移住。空海の真言密教と京で出会い、伊豆で最新の埋葬方式の五輪塔を採用。関東・日向・飫肥・薩摩・奥州等各地に伝えた。



<五輪塔の世界>


    額安寺 忍性菩薩・五輪塔>
額安寺は奈良・大和郡山市にある。聖徳太子創建の学問道場「熊凝精舎」を源とし推古天皇(593-628)が「額安寺」の寺号を付与された。唐から帰国の額田部氏一族・道慈律師(702-718)が初代住職で、密教の修行法「虚空蔵求聞法」を日本に伝え虚空蔵菩薩像を安置。忍性菩薩供養塔は鎌倉時代の五輪塔。忍性は現大和郡山市三宅町屏風生まれで初め西大寺で救癩活動、後幕府の招聘で鎌倉・極楽寺で慈善と国家鎮護の活動。晩年は四天王寺の別当に就任。極楽寺で87才没。
宝珠 kha
半月 ha
心臓 三角 ra
円形 va
方形 a
身体 形色 五色 五輪 種字



         墓の文化と五輪塔

<古墳時代~奈良時代>
 大型古墳の時代をへて大化の改新(645)の頃から、朝廷は、貴族・豪族階級に向けてしばしば葬送形式の簡素化のための「薄葬令」を出し、死者の霊魂浄化期間である殯(もがり)を禁止するなどの施策を行った。これ以降、霊魂を瞬く間に浄化する手段として「火葬」が普及し始めた。殯りは、殯の宮・喪屋での供養・埋葬で「荒城」(あらき)と言い、これに対し正式の墓所のことを「奥津城」(おくつき)ともいう。
 勿論、一般庶民は、身体そのまま又はせいぜい棺に収めて土に埋められ、その上に石を置いたり木を差したりする程度しか許されなかった。

<奈良時代~平安時代>
 8世紀以降(710~1185)首都・平城京の内側に墓を造ることは法律で禁止されていたが、京の都になってからもその方針は貫かれていたと言う。このため、天皇と貴族の墓は首都郊外に造営された。861年には百姓の葬送・放牧地5ヶ所が定められ、平安時代の庶民の葬送には京の周辺の山野・河原が当てられた。京・西北のあだし野、舟岡、東南の鳥部山、鳥部野一帯が葬送の地であったと言う。

<平安時代中期(墓塔の発生>
 平安時代中期 11世紀(1000~)頃になって現代につながる墓塔が発生した。この頃にはそれまでの貴族仏教・学問仏教に加えて、八大地獄や西方浄土思想を掲げ庶民・大衆の救済をめざした日本の浄土信仰が芽生え、仏教が一般庶民に広がりはじめた。
その中心勢力となって仏教の教育宣伝活動を行ったのが高野山のいわゆる高野聖たちであった。高野聖たちは、全国津々浦々まで回って、遺体を風葬したり土葬しただけでは死者は浄土に生まれ変ることは出来ないと説き、遺体の一部は弘法大師の開かれた高野山に納めるように呼びかけた。この活動によって、高野山には多くのお墓が造られるようになり、そのお墓には「光明真言塔」という塔が建てられた。これが、最も古い墓塔と考えられると言う。また、高野山にある多くの宿坊は、その遺体を納めるため遺族たちが高野山に参拝にきた時にその客を案内し、宿泊させるために造られた。

<経塚と塔頭の発生>
 その後12世紀になると「経塚」が発生し、種々の目的で写経をして金属製の筒に入れて土に埋め、その上に石塔を立てる。さらに、大きな足跡を残したお寺の高僧を葬った後に塔を建て、そこに庵を設けた「塔頭」(たっちゅう)が発生。
 これと平行して、高野山以外の浄土系仏教、次いで日蓮宗、最後に禅宗の順に、仏教各派も葬儀を執り行うようになった。
しかし、東大寺、薬師寺など南都の仏教寺院は、この風潮に対する反発もあり現在でも葬儀は行わない。これらの寺で住職など僧侶が無くなった時には、浄土系仏教のお寺の僧が葬儀を取仕切っている。

<五輪塔の発生>
 平安時代を特徴づける墓の形として五輪塔がある。これは日本独自の造形で、弘法大師空海の発明と言われる。五輪塔のフォルムは、下から四角形、円形、三角形、半円形、如意宝珠形の五つの石を積み上げたもの。日本墳墓史によると、この形式の墓塔は早いもので平安時代中期、多くは鎌倉時代中頃から普及しているという。高野聖が全国的に普及させたとされ、日本最古の年号の刻まれた五輪塔は、岩手県の中尊寺にあり弘安4年(1168)、近くの飯田市南原の文永寺にある五輪塔は2年後の弘安6年(1283)の刻があると言う。

<伊東家墓所の年輪>
 また、箱根や伊豆にある曽我兄弟の五輪塔は平安後期のものと言われているが、京における「空海と藤原氏」の深いつながりを考慮すれば、曽我兄弟の先祖でもある工藤氏・狩野氏・伊東氏など藤原南家・伊東氏の先祖累代墓地(伊豆・伊東市)に見られる多くの五輪塔は、更に古く平安中期から後期の最古級の墓と考えられる。




                 仏教の宇宙観と五輪塔
         
  <空海の慈愛>

 五大思想は、宇宙と生物界など物質と精神、無機・有機の一切の世界は、「地・水・火・風・空」の五つの構成要素からなると説く仏教の宇宙観をなす根本思想。常に止まることなく変化し続ける「無常の世界」を分かりやすく端的に表現した思想
。般若心経には人間の身体と精神作用を五つの要素で説明して五陰(ごおん)とある。その他五大、五色、五葉、五重塔、五体投地、五輪塔などこの思想に基づく日本の文物は多い。墓塔の源流はインドの釈迦の遺骨を納めた仏塔いわゆるストーパであるが、日本では推古天皇15年(607)に聖徳太子が建立した法隆寺の五重塔が世界最古の木造の墓塔として名高い。
真言密教の開祖・弘法大師空海は、仏の広大無辺の慈悲によって、この根本思想を「五輪塔」の墓塔に具象化し、世間の凡愚の人でも分かるように可視化して、それを高野聖が全国的に普及させたと言われる。人間の認知レベルの世界(胎蔵界)とそれを含む宇宙法則に満たされた絶対者の智の世界(金剛界)。生身の人間の世界が、そのまま絶対者の世界(仏様)に深く抱摂されている姿を暗示したフォルムである。
 五輪塔の仏教芸術は、人間の身心は宇宙の一滴であり、宇宙と同軸・同質であり、一即一切一切即一 、人は誰彼なく例外無しに絶えず燃えながら仏を営んでおり「即身成仏」である。そして、「自分」という思い込みは、例えばチャンネルで切り替わる「テレビ画面の映像」と同じような「幻想」で実態の無いものであり、よく自己観照すれば、人は本来、間違い無く立派な「仏様・如来様」であり、
「衆生」すなわち「真性の宇宙生命体」その人を表現している。 そこには、「人間」という言語・文字など記号文化で踊る幻想世界とその病、汚れ、瘡蓋、鎧や衣ともいえるような「表層の自己」を脱皮していよいよ「唯心」という永遠の大海を自在に遊泳する「本来の自己」を再発見できるという。
(2006.5.10 伊東記)






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<参考文献およびリンク>

戦国島津女系図 http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html
(飫肥藩・伊東家墓所)
富士宮市ホームページ http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/fuji/index.htm
(富士の巻狩と曽我兄弟の仇討ち)
曽我兄弟物語 http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/pdf/soga.pdf
日本墳墓史 http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199202.html
三宅町ホームページ 忍性菩薩http://www.town.miyake.nara.jp/html/machi_info/kanko/ninsho.html
Area 2 鎌倉・実相寺http://www.j-area2.com/area/kamakura/jissoji.htm