<墓所と墓塔 その5>

「太閤秀吉本陣」泰平寺史跡風景<薩摩川内市・中郷>


<日向流>
薩摩(鹿児島) 伊東家墓所と歴史



薩摩(鹿児島)の伊東氏




     <政治・軍事の歴史的戦略拠点>       (下段の地図参照)


             <薩摩川内市・中郷>

      伊東家墓所と深いえにしを物語る史跡風景



「泰平寺」(医王山正智院)<創建:藤原京時代>
 <場所>鹿児島県薩摩川内市大小路町 <宗派:真言宗>

 
<1300年の歴史を刻む由緒ある薩摩屈指の寺院>
 天武天皇即位の大宝元年(701)、法治国家としての日本国統治の基礎的な法律を定めた「大宝律令」が藤原不比等らによって完成した後、首都が藤原京から平城京に遷都される2年前の和銅元年(708)に「元明天皇の勅願所」として建立された。約1300年の歴史を刻む薩摩屈指の極めて由緒ある古刹である。
 南北町時代に下って、足利幕府から「一国一基の塔婆(利生塔)」を泰平寺に建立するよう長老宛に院宣が下され、翌年8月18日には仏舎利2粒がこの塔婆に寄進されたという。

 
九州征伐「太閤秀吉の本陣」
 また、戦国期の天正15年、九州征伐の時、秀吉がこの寺を御動座の本陣として接取し、薩摩の総大将・島津義久が秀吉に降伏し、和睦の会見が行われたことは歴史的に有名である。この降伏の斡旋に当たった当時の泰平寺住職宥印の人物と活躍は歴史に花を添えているが(三国名勝図会)、泰平寺境内には島津氏の降伏を記念する和睦石が宥印の墓と並んで現存している。


■史跡「安国寺」(臨済宗・太平山安国寺)<創建:南北朝時代>
 <場所>鹿児島県薩摩川内市中郷町  

 
<室町幕府の戦略拠点>
 上記泰平寺に記載のように、足利尊氏が征夷大将軍に就いた歴応元年(1338)10月14日、足利政権(室町幕府)の政治・軍事両面での新たな拠点として、全国66ヶ所に一寺(安国寺)と一塔(利生塔)を建立する御教書が発布された。(「足利義直御教書」および「足利義直寄進状」)
薩摩の安国寺は、古くは京の南禅寺の末寺であったが、現在の薩摩川内市中郷町の辺り、育英小学校から農協支所一円にあった。九州征伐戦の太閤秀吉御動座の際兵火で焼失し、後に再建された安国寺は、伊集院広済寺の末寺とされ、寺領も300分の1までに縮小され宝永5年の台風水害の被害が大きく荒廃した。現在、明治15年にその跡地に近い所に新たに建てられた「浄土真宗本願寺派の安国寺」があるが、名前は同じでも中世・安国寺から伝わるものは何も無いという。

宅満寺(たくまじ・松林山成就院宅満寺)<創建:室町時代・永禄2年>
 <場所>鹿児島県薩摩川内市中郷町 「明治元年廃仏廃寺」

 
宅満寺の遺風
 宅満寺は、諏訪神社および泰平寺等と関係が深かった。「中郷史」(鮫島政章 昭和25年頒布P20-23)によると、「三国名勝図会」に「松林山成就院宅満寺」(地頭館より子方4町余)に掲載されている。当時の地名で「中郷村宅満島」にあり、本府真言宗大乗院の末寺なり。本尊は、如意輪観世音(木坐像、長八寸 許安阿弥作)。開基は永禄2年(1559)、闔村(とびらむら)の祈願所なり。和名抄に薩摩国高城之郡新多託萬見ゆ。託萬は即ちこの宅満寺の辺りで、地名をもって寺号としたと思われる。今、この寺地、薩摩郡に属すといえども高城之郡は近隣たるゆえ、郡界古今の沿革による。また、宅満寺は、寺地が今の権現から薗畑までの広大な寺であった。」しかし、明治の廃仏毀釈で明治元年(1826)廃寺になった。

 
太閤秀吉と傑僧・泰平寺住職宥印との逸話
 「天正15年4月25日、太閤秀吉大軍を率いて諸城を降し村落に放火す。その勢い破竹の如く、泰平寺を本営としようと決め使者を遣わして泰平寺住職有印に「速やかに寺を去るべし。もし、遅滞せば殃い(わざわい)身に及ぶぞ」と。宥印是にこたえて「愚僧は当寺の住職なれば寺と存亡を共にすべし。一足も退き去るの心なし」と顔色自若としていた。
 太閤は以前に、本願寺僧の「顕如上人」を薩摩に派遣して民情視察を兼ね法を説かしめていた。その報告に「薩摩には傑僧多し」とあったという。これこそ真であると、太閤は有印の節義に感じ再度人を遣わし礼を厚くし、辞を卑くして伝えた。「大軍遠境にきて本陣とするところが無い。泰平寺境内は広くして軍衆を容るるに足る。「願わくば貴僧暫く寺を去って私に貸してもらいたい」。宥印答えて「謹みて命を奉ずべし。しかし、出家であるからと言って、兵を恐れて連れ去ったなど後代の嘲笑に遇っては恥辱である。故に、退去先を世話してもらいたい。しからば命に従う。」 これには、太閤もそれはそうだと感じて太閤が宥印を「中郷の宅満寺」に移して寓居せしめたのであった。こうして、天正15年5月3日秀吉はようやく泰平寺に入り本陣とした。しかし、宥印の威風はこれに止まらなかった。
 宅満寺に寓居した宥印は、毎朝、秀吉進駐軍の中を分けて往復し、泰平寺まで読経勤行を怠らなかった。諸軍兵の厳戒の中従容として少しも恐れる色無き様子を、衆軍の兵士感じ入り見ていたと言う。また、5月8日になり薩軍総大将・島津義久が降伏し太閤に和を講ずるに際しては、秀吉と義久の間にたって円満に調停したのであった。そこで、太閤は、抜群の僧として大いに田禄・褒美を与えて賞賛しようとした。しかし、宥印は「国敗れ、主は辱められた。この国の禄を食している愚僧、何で賞を受けられよう」と、秀吉のその提案を固く断ったと言う。
 この太閤と泰平寺住職宥印との間に生まれた逸話は歴史的に名高い。(引用:「中郷史」鮫島政章昭和25年頒布P20-21)

<菩提寺「宅満寺」と伊東家墓地>

 「中郷史」P39~P44には、中郷の伊東家の由来、系図、異国船取締など歴代の中郷伊東家の役職のほか、「伊東家の墓地が宅満寺にあり、薗畑に現存し「伊東家先祖の墓」という幅2尺・高さ5尺の巨石塔がある。この墓には祭料として田14坪がつけられている。」と記録されている。(なお、薩摩中郷は薩摩伊東氏の嫡家と一族の拠点であった。中郷史は「郷」単位の史誌であり、鹿児島本城出仕・仕官における一族の官名・役職は、薩摩藩の職制、人物誌、諸郷地頭系図などの藩政史料によらねばならない)

■島津歳久と殉死者の供養塔
 <場所>鹿児島県薩摩川内市田海町 「天沢寺」史跡(明治元年 廃仏廃寺)

 
文禄の役に参戦できない老将・重臣24名、「死に場所」を求め、歳久自決に殉死す>
 
宮之城・日置領主・歳久の領地であった鹿児島県薩摩川内市田海町には、曹洞宗「天沢寺」史跡(明治元年 廃仏廃寺)があった。秀吉の薩摩侵攻に数々の抵抗を示したため、天正20年改め文禄元年(1592)7月18日、文禄の役に際し秀吉から制裁を受け切腹した歳久の追悼碑「心岳良空大禅伯」と共に、歳久に殉死した東郷出身の家臣団の本田四郎右衛門、木脇民部、伊東雅楽介(戒名:玉林長泉禅定門)などの老臣・老将24名の戒名と名前を刻んだ追悼墓がある。
 秀吉の「慶長・文禄の役」の朝鮮渡海の侵略政策は、当時の薩摩藩・島津氏に対して特に過酷な負担を強いるものであった。度重なる秀吉の出兵要請、船・武器・食料など物資の調達も激しかったので、薩摩の若い武士はほとんど戦争に取られておらず、残っていたのは老兵と病人だけであったという。年寄で参戦もできず食料難の中食い扶持だけが気がかりで、殿様の御役に立てない肩身の狭い重臣たちが多かったと思われる。ご法度の中24名の殉死者は異常であったが、それはこの事件の性格と歳久の人間性に加え、このような当時の薩摩藩の環境が大きく影響していたと思われる。なお、天沢寺は当時「曇衆寺」と称されていたっという。


■国分寺史跡・国府史跡
 <場所>薩摩川内市国分寺町

 国分寺は、中郷境にあり、中郷と関係が深かった。天平13年(741)平城京の聖武天皇は、国分寺・国分尼寺の二寺建立の詔を発せられ、全国の各国一寺が当時の政治・文化の中核機能として国府に近接して建てられた。この薩摩国国分寺は平安時代中期以降、大宰府天満宮の別当寺・安楽寺領となった。安楽寺では、天満宮を勧請して当国分寺の鎮守とした。その勧請は村上天皇応和3年となっている。天正15年太閤秀吉の九州征伐の時戦火に焼かれ、寛文9年再興されたが明治2年廃仏稀釈により廃寺された。昭和21年塔跡と礎石をもとに国の史跡となった。1976年全区域1.5haが国史跡として追加認定され、1985年「薩摩国分寺跡公園」として整備された。


      
最下段の「薩摩川内市の地図・史跡風景」参照






薩摩藩・伊東家累代墓所

<桃山時代~明治維新~現在>



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この写真上下二枚 仏像彫刻に留意し追加掲載(2007.5.6 参拝)







         <日向流>薩摩伊東家累代先祖の墓所

                天正・文禄年間~西南戦争(1592~1877)

        <旧宅満寺伊東家墓地から「宅満寺墓地」へ移設 隣は宅満寺公園>



<薩摩の始祖:伊東祐審(祐明)> 

 祐審(祐明)は、晩年「雅楽介」とも称した。日向都於郡城の伊東家において、伊東祐尭--祐国--祐武--左兵衛佐・加賀守(祐安)と続く。
木崎原の戦いで戦死した加賀守(祐安)の弟・右衛門佐(祐審・すけあき)で、加賀守の家督を承継したとある。天正5年12月「伊東義祐の豊後落ち」により伊東家敗戦の後、島津家臣となり戦後の伊東家の継承者・嫡家とされて義久・義弘に仕える。右衛門佐は、天正9年水俣の合戦、天正15年豊後陣肥後関城の決戦に軍功多く、太閤秀吉が薩摩に御動座の砌は大口城に立て篭もり降伏しない新納忠元を説得するため、島津義弘の使者を勤め下城させたことが「本藩人物誌」に見える。また天正19年大阪の陣のとき大阪蔵奉行。天正20年(文禄1年)、朝鮮の役・出陣を巡る事件の島津歳久切腹の折は、鹿児島竜ヶ水において、「伊東雅楽介」を称して、主家島津家臣団24名の殉死者の一人となり武家として有終の美を飾った。時に65才前後の老臣であった。
 墓碑建立は、薩摩伊東家祖とされる祐明の没年で起算した場合文禄年間(1590年以降)、祐明以前加賀守祐安等先祖の供養・追悼の便宜を確保するため、祐安の後継となった祐明が、生前に建立したとも考えられ、飫肥藩成立後の天正年間(1587以降)の可能性もある。

<嫡男:伊東七右衛門・弟:孫八>

 祐明には二男一女があった。
嫡男七右衛門は、官名で喜左衛門・喜右衛門を、次男孫八は次左衛門と称した。また、薩摩入国以前日向国では喜右衛門は「祐命」・「三河守」、次左衛門は「金法師」と呼ばれた。そして、七右衛門は嫡家として祐明の家督を継ぎ、孫八(次左衛門)は、伊東加賀守の子源四郎の家督を継いだ。これは、源四郎が川崎駿河守を称した伊東一族の伊東平右衛門家の養子となることが約束されていたことによる。
 「中郷史」(鮫島政章)および「さつま」の姓氏(川崎大十)等の記録によれば、
伊東七右衛門・・孫八の兄弟は、関ケ原の合戦で戦死(記録によっては庄内の乱戦死)。

<島津義弘の采配--伊東家断絶の危機を救う>

 
関ケ原の合戦で嫡家・伊東七右衛門・孫八の兄弟が戦死したことで、惟新公(島津義弘)は、薩摩伊東家(嫡家)の断絶を避けるため伊東兄弟の姉妹の一と、親戚の木脇大炊介伊東流「田原五郎左衛門」(祐紀)との間に生まれた子・田原彦方を御前に召出し、「新六」併せて「祐貞」の名を与え、命により伊東七左衛門(七右衛門)家の養子とし家督を継がせた。その折、義弘は祐貞の御腰物(長2尺7寸)および国俊の両脇差、併せて薩州千台(川内)のうち高城長野間に多くの采地を与えた。時に、元和3年6月15日に加治木御支配所の名寄帳に登記された。また、元和3年6月6日祐貞15才の時、義弘の命により祐貞直父・田原五郎左衛門を後見と為し、伊東祐貞を「薩摩中郷の押役」に任命した。これにより薩摩中郷は薩摩伊東氏の拠点となった。


<伊東家の職種・役職、家格等>

 
伊東右衛門佐(祐明)は、伊東家始祖で嫡家、義弘の副将、ご家老職。その子七右衛門は喜右衛門を名乗って、本城に仕官し島津忠恒(家久)公御供御納戸役にて朝鮮渡海。その子祐貞(新六・祐種)は、御屋形奉行・御船奉行・各地の地頭、目付役。
その後、伊東家は中郷押役、歴代中郷與頭役、曖役、外国船取締り役。また代々僧侶も出たがこれは、孫八(次左衛門)が、日向の都於郡時代真言宗の名刹一乗院の弟子「金法師」であったが後に還俗したことによると思われる。特に異国船取締りは20年以上数十年にも渡り、伊東家には「異国船人数賦帳」(享保7年「西暦1722」2月29日)の記録が残されていた。

 薩摩伊東家の嫡家とされたこの系統は、初代祐明~2代喜右衛門(七右衛門)~3代祐貞と続き、幕末におけるその子孫は「伊東源右衛門」とされ、島津藩における家格は「小番太刀」であったと記録されている。(「諸家大概」および「本藩人物誌」)
 
しかし、薩摩藩が「薩軍と官軍」という「敵・味方」に分かれて戦った慟哭の西南戦争とその悲劇的な結末を反映して、詳細な記録は消失して残っていないと言う。


<伊東家の家系図と離散>

 薩摩伊東家は、天正15年以降明治10年頃までの家系図が残されている。
この嫡家の子孫は、幕末期に伊東祐孝(休右衛門)--伊東祐長(藤太夫・伊五郎)--伊東源右衛門(源四郎)等を称した。なお、この一族は、明治維新、西南戦争、太平洋戦争などの激動によって、その多くが鹿児島県各地、九州はじめ関西、関東など各地に離散し移住したという


 <情報提供>
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  参考1:墓所写真提供・中郷伊東家情報 伊東 正様(薩摩川内市在住)

           
<問合せ先>
         
       http://www11.ocn.ne.jp/~bau25/


  参考2:「中郷史」史料・関係情報提供>伊東 明様(さいたま市在住)









   始祖:伊東右衛門佐(祐審・祐明・雅楽介)の墓


伊東右衛門佐は、日向伊東氏崩壊によって島津家臣となった薩摩伊東家の元祖で且つ嫡家である(「本藩人物誌」・島津家「諸家大概」)。この墓は、天正5年日向を去り薩摩入国、義久・義弘に仕え、
晩年は雅楽介を称し日置・宮之城領主島津歳久に付属していた伊東右衛門佐・祐明の墓塔。また、この墓は日向以来の祐武(祐明父)--祐安(兄)--祐明(祐安の家督承継)と続く伊東家先祖の追悼墓として建立された可能性もある。木崎原の戦死者を埋葬した「伊東塚」(小林市)の「加賀守祐安」の五輪塔墓(五代勝左衛門建立)とのつながりもあり、上部など一部破損も見られるが安土桃山時代の建立。この墓塔は、伊豆伊東氏(平安時代)にはじまり日向伊東氏(南北朝・室町時代)~薩摩伊東氏(安土桃山時代~明治時代)まで続く同じ形態の五輪塔。後世に「伊東家の墓塔1000年の歴史」を伝える伝統のフォルムである。





        「伊東塔」(五輪塔の変容)

 ここに追悼されている墓塔の由来は、伊東家の歴史として記録にあるが、祀られている人名は具体的に刻まれていない。
 此処の墓所の開設の縁起は島津義弘公と言われ、抱き合わせのこの大小二つの五輪塔は、関ヶ原合戦(実は伊集院忠真による島津家内乱「庄内の乱」)の鎮圧のため参軍し戦死した薩摩伊東家の七右衛門(祐命・三河守・喜右衛門)、弟の孫八(金法師・次左衛門)の兄弟と推察された。他方、兄弟の死後、薩摩伊東家は島津義弘公によってお家断絶回避の措置がとられた。伊東右衛門の女(一人娘)と伊東祐紀(伊東源四郎三男。笠間石見三男を称した記録もある)との間に生まれた「伊東彦方」を「伊東新六」、後に「伊東祐貞」の名前を与えて後継に立て、薩摩伊東家はその子孫を中心にして繁栄を計ったと記録にある。従って、この一対の墓塔は、伊東家の中興の開祖となった右衛門と源四郎の子同士組合せである夫妻を追悼した墓塔とも考えられる。また、墓の様式は、日向流伊東家の伝統を伝えている。おそらく、後者の可能性が大。
 この墓塔は、江戸時代初頭から350年以上の風雪・激動に耐えてきた「歴史の証人」の姿にも映る。しかし、いつの頃からであろうか不明であるが、五輪塔の「地・水・火・風・空」の五層のうち、上端の風・空の2層は傷ついていて痛ましい。







         「伊東家累代の墓」の墓碑













明治維新以前~西南戦争期

大隅(東目)開発のため 西目(薩摩)人の民族大移動



 「中郷史」(鮫島政章 昭和25年1月5日頒布)の記録によると、薩摩伊東家の嫡家は、幕末において---伊東与右衛門(祐清)---伊東休右衛門(祐孝)---伊東藤太夫(祐長・伊右衛門)と続き、明治維新そして西南戦争に遭遇した。
伊東祐長は伊右衛門の名前のほか「藤太夫」を常用していたことが窺える。藤原氏の嫡家・長子を指すと思われる「藤大夫」を名乗った伊東祐長は、西南の役以前の明治5年~明治8年まで、後の育英校の前身として設立された「第十五郷校(中郷郷校)において、初代教師・校長として、士族の子弟を集め、参字経、中庸、論語、孟子、大学、小学等の教科書を使用して読み書きを教えた。また、西南の役では、明治10年2月5日午前2時田海村役場出発し東郷へ。鹿児島県第32大区3小区。同年2月8日、東郷より「私学校」へ加入手続き。約120名と百姓25名は、東郷に1週間ぐらい滞在して宮之城まで送り、大口を経由して熊本へ参戦した。この出陣により伊東藤大夫は戦死した。なお、伊東明氏の調査によれば、東郷町郷土史P505「西南の役戦死者」には、「伊東藤太夫 明治10年3月12日 熊本県山麓にて戦死。」とあると言う。なお、この中郷史記載の「明治9年2月28日付平原の下の橋の碑文」に、副戸長の伊東彦兵衛(助行・祐行)がおり、彦兵衛は、藤太夫と共に西南の役に参戦したが無事帰還を果たし、明治15年には「中郷村長 伊東助行」であったとの記録がある。

 なお、「鹿屋市史」(上巻)第九章「大隅開発」(P327~P338)によると、薩摩藩島津氏は、薩摩半島の過密化と食料難を解決し藩政を改革するため、はじめは江戸時代の寛文年間から、次ぎには「天明の飢饉」直後から明治にかけて、農業に不向きなシラス台地が多く薩摩半島に比べ開拓が進んでいなかった大隅半島を活用する巨大事業を推進した。この世紀の事業の推進によって、薩摩半島(西目)から日向・大隅地方(東目)へ多くの人々が移動して行ったが、その移動の型には三種があった。それは、①藩主の命による強制移住(転住と人配)、②職人としての出稼ぎ移住、③大隅で高禄の家臣が開発領主となって開墾した「堀」と呼ばれた抱地に関係した移住であった。大隅鹿屋・串良の一帯には「堀」が138ヶ所もあったという。その一つの堀の面積は40町歩にもなる広大な耕作地だったと言う。

 そして、大隅地方には薩摩伊東家が開発領主となった(伊東)休右衛門堀、(伊東)次郎右衛門堀、(伊東)喜右衛門堀、(伊東)良右衛門堀など多くの「堀」が開かれていった。これら伊東一族の姓名は、薩摩中郷や東郷の伊東家の系図に見られる名前と一致していて、薩摩地方「西目」の高禄の武家であった伊東休右衛門などの一族が、藩政としての「大隅開発」推進の中心的存在の一であったことが窺える。そして、明治維新以後には薩摩の伊東氏の一族が大隅の鹿屋郷へ移り住んだという。
 このような「西目」と「東目」の密接なつながりを示す史料がある。
「鹿児島県維新前土木史」の第四項<開墾灌漑>の項において、薩摩郡宮之城町一ツ木用水および伊佐郡菱川村田中堰の修築に関する嘉永元年(弘化5年)の記念碑(弘化五年戌申三月吉日)の記録が残されている。その関係責任者一覧の中、後段に「・・・・・、同名主 源左衛門、清右衛門、・・・、次兵衛、休右衛門外二十七名」とある。
 一方、江戸時代を承継した明治5年編纂の鹿屋郷(鹿屋市)の戸籍には、天明初期誕生の伊東休右衛門---伊東源右衛門(休右衛門二男、文化12年生まれ)---嫡男伊東次吉と続く伊東家があった。これは、薩摩(西目)の伊東氏の一部が、明治維新を契機に大隅(東目)に移住した歴史を裏付けるものであった。そして、源右衛門はある時期から加世田・吉利領主であった小松帯刀に属したといわれ、子や孫の名にそれまでの先祖に見られない次吉・友吉・末吉など「吉」の一字を通字としたのは、薩摩の吉利との深いつながりを感じさせる。

 また、「鹿屋市史」(下巻)第五節「西南戦争」(P779~P790)およびこれに先立つ「鹿屋郷土誌」(昭和12年発刊)によると、西南の役において、西郷結党の「私学校」とは立場の異なる藩主家の警護隊「島津学校党」であった伊東次吉をはじめ鹿屋の軍兵200名は、「私学校」の兵と共に、鹿屋郷を出発し鹿児島~大口~人吉へと参戦した。そして、敗戦後、次吉も多くの薩軍の兵士と共に西南戦争の裁判で裁かれ、受刑の途中死亡したという。
 なお、薩摩から大隅鹿屋へ移住した後西南の役の激震に見まわれ、立ち行かなくなったこの伊東家は、源右衛門二男・仲太郎が分家して根占に住し(戸籍:肝属郡根占町役場)、その子孫代々の根占・富田家にある墓には、墓碑に「伊藤仲太郎」(戸籍簿には「伊東仲太郎」と記載)とあり、仲太郎が鹿屋の源右衛門の元から持参して使用していたというこの地には珍しい家紋---日向伊東氏の由緒を伝える「月星九曜」の家紋(定紋)が刻まれている。
参考:伊東源右衛門家の家紋と二男家の墓(根占町)


 上記写真の中郷・伊東氏の集合墓は、鹿児島において明治維新から西南戦争へと続いた世紀の大津波を想起させ、また遠ざかる明治という特別な時代へのいささかの哀愁をも感じさせるものがある。
















            島津歳久及び伊東祐審等殉死者の供養塔


 
<太閤秀吉と島津歳久の際立つ因縁>
 歳久は、島津義久・義弘の弟で当寺祁答院(現:薩摩川内市祁答院町)の領主であった。
太閤秀吉の九州御動座において、歳久は兄義久が秀吉に易々と降伏し、抵抗無く秀吉軍の侵入を許したことは甚だ遺憾とし、秀吉が薩摩に入った当日義久と共に出迎えなかったり、秀吉が宮城之城を通過する際には歳久の軍兵の一部が進路を妨害したり大いに抵抗を示した。更にその5年後、秀吉の朝鮮出兵に当たっては、病であったことを理由に秀吉の命令に背いて出兵しなかったり太閤に抵抗を続けたと言う。

 ところが、朝鮮の役の渡航が行われていた険悪な時期に、肥前国名護屋城に滞在中の太閤秀吉の前で、「島津氏存亡の危機」迫る大事件が発生した。
 島津軍の「梅北国兼」という武将が、肥後佐敷城を奪って秀吉への反乱を企てたのである。この騒ぎはあけなく鎮圧されたが、この反乱の中に歳久の軍兵が含まれていたとの理由を立て激怒した秀吉は、島津義久に早速薩摩に戻り「弟・歳久を討取り速やかにその首を差出すように。従わなければ、島津家は攻め滅ぼすぞ!」と厳命を下した。義久によって、伊集院から鹿児島に呼び出された歳久は、ようやく己の置かれている避け難い運命を自覚し、約100名の家臣の将兵と共に帖佐方面から伊集院へ帰還することにした。しかし、すでに海上には義久の追手が退路を断っていたので、鹿児島から数キロ先の櫻島の景観の地・竜ヶ水を選んで武将の本懐を飾る臨終の地とする決心をした。こうして、歳久は天正20年(1592)7月18日、兄義久の追討軍を迎え撃ち後に切腹したのであった。また老将を含めて重臣の多くが殉死し、歳久の家臣団は全滅した。歳久の首は京に送られて一条戻り橋に晒されたという。享年55才であった。

 義久は、太閤の厳命に従い断腸の思いで弟歳久を追討したが、目前に突き付けられた島津家断絶あるいは改易の危機を辛うじて回避することができた。
 義久は、秀吉の死後になって竜ヶ水の地に、歳久と殉死した主だった家臣の菩提を追悼するため「心岳寺」を建立した。この寺は、明治政府の廃仏毀釈によって廃寺となったため、その霊は近くの平松神社に移され嗣られている。


 <島津歳久及び殉死者の供養塔 伊東祐審・右衛門佐(雅楽助)殉死者の一人
(場所)鹿児島県薩摩川内市田海町「天沢寺」史跡(明治元年 廃仏廃寺)
宮之城・日置領主・歳久の領地であった鹿児島県薩摩川内市田海町には、曹洞宗「天沢寺」史跡(明治元年 廃仏廃寺)があった。天正20年(1592)7月兄義久軍によって歳久討死の際、文禄の役に参戦できない東郷一帯の家臣団の老将・重臣24名は、歳久の人物を惜しみ、その不運に強く感じ入りここが武家一番の死に場所と殉死者が続出した。供養塔の側には殉死者の名前と戒名を刻んだ碑板が建っている。
この殉死者の一人となった伊東右衛門佐(祐審・祐明)は、晩年伊東雅楽介を号し、戒名は「玉林長泉禅定門」であった。
なお、この供養塔は、宮之城領主歳久と家臣団の
「地元に建てられた供養塔」である。




                 

<相肝照らす両雄・豪傑の舞台>
新納忠元と伊東右衛門佐


  <九州征伐天王山>太閤秀吉・曽木天童ヶ尾 着陣
   「島津家存亡の大舞台」

伊東右衛門佐の大役 「島津義弘の使者」

忠元へ「大口城を下城し秀吉に降伏すべし」と勧告・説得に成功
<島津氏の降伏確定と秀吉の九州平定終結>

 天正15年5月3日秀吉は泰平寺に入り、この寺を接取し御動座の本陣として、薩摩の総大将島津義久は降伏した。義久は伊集院の雪窓院で剃髪し名を「竜伯」と改め、この寺で和睦の会見が行われその罪を謝った。秀吉は大いに喜び厚くもてなした。そして、大隅一国を安堵する朱印を与えて帰し、それを追っかけるように人質を要求したので、竜伯は義久の三女亀寿のほか伊集院忠棟など諸老臣も差出す約束をして和議が成立した。

 しかし、当時義久の武将たちの中にはこの和議を喜ばない
者が多かった。
飯野城の義弘、宮之城の歳久、大口城の新納忠元、都城の北郷一雲などであった。
 そこで、秀吉はこれ等を征伐するため動いた。そして、
秀吉は歳久には石田三成、伊集院忠棟、そして木食上人等を派遣して説得し、義弘には羽柴秀長の使者を向かわせ、また木食上人の訪問を受けたので、歳久も義弘も和を乞うた。しかし、大口城における忠元はしきりに防戦の構えをとり容易に和議に応じなかった。

 そこで秀吉は
<一回目>
石田三成、伊集院忠棟を使者にたて大口城を下りるように勧告したが断固拒否したのみならず、伊集院一行に忠元の軍兵が鉄砲を撃ちかけてきたのである。

<二回目>次いで伊集院忠棟は、さらに
「義久・義弘様はすでに和睦され、自分を人質に差出され、亀寿さま、又一郎(久保)様も人質に差し出された。」「よって忠元も下城仕るべし。」と伝えたがなおこれを拒絶した。

大口城を死守する戦闘力旺盛な忠元軍の反応を受けて、
秀吉の遠征軍はいよいよ「大口城総攻撃の態勢」に入った。

<三回目>そこで、この容易ならざる事態に急遽島津家の身内から説得に当たらせることとし、
島津義久は新納久鐃(ひさあき)を、島津義弘は伊東右衛門佐(うえもんのすけ)をそれぞれ使者に立て、まさに島津家の存亡を賭けた「最後の勧告」に当たらせたのであった。両人は「これ以上拒めば、即ち殿様の御敵たるべし」と伝え、右衛門が更に説得を重ねたところ忠元は「この上は力及ばず」と、ついに観念して太閤秀吉の御前に出頭することにした。

 「島津一番の豪傑で知られた名将新納忠元」を説得し、玉砕覚悟の決戦を思い止まらせたという、秀吉の九州征伐戦の最終章を飾るこの有名な一幕は、「お家存亡の危機迫る歴史の大舞台」に遭遇した島津陣営において、「伊東右衛門佐という人物」の余人をもって代え難い傑出した存在感を示すものであったと言えよう。


 津本 陽著「夢のまた夢」には、この「天堂ヶ尾一帯」に布陣した太閤秀吉とこれに降伏せずなお敵対する島津軍の名将忠元の戦国史を飾るドラマを描いており有名である。

          



         「のまた夢」<津本 陽 著>から


 秀吉は新納忠元がもっとも戦意旺盛であると知って、攻撃態勢をとった。

五月二十四日、堀秀政、長谷川秀一、前田利長、木村重茲、前野長康らの先手を曽木に向かわせ、天堂ヶ尾一帯に布陣させたのち、二十六日に自ら着陣した。
竜伯(義久)と義珍(義弘)は、豊臣勢が総攻めの準備をととのえたのを見て、
新納久あき、
伊東右衛門佐らの使者をつかわし、降伏するよういい聞かせる。
これには、
城とともに玉砕を覚悟していた一徹の忠元も遂に観念し、剃髪して拙斎と称し豊臣本陣に参候し、秀吉に謁して銀子二十枚、刀一振りを献じた。

 
秀吉は忠元に薙刀一振りと道服を与えた。
忠元は主家のために弓矢を捨てたが、なお心にわだかまりがあったので、謁見の場で顔をあげず、眼をあわせなかった。
 
「拙斎に陣扇をつかわせ」
拙斎は陣扇を賜ったが、それでも顔をあげない。

秀吉は拙斎に顔をあげさせようとして冑を与える。
拙斎はそれをひれ伏したまま頂戴した。
 
「拙斎、盃をつかわすゆえ傍へ寄れ」
秀吉は盃を与えたが、拙斎は平伏したままにじり寄り、顔をあげずに酒をすすった。
 
「何とも面憎き男でや」
秀吉は歌を詠んだ。
 
「はなの辺りに松虫ぞ栖(す)む」
拙斎(せっさい)はただちに返歌をした。
 
「うわ髭をちんちろりんとひねりあげ」

秀吉は拙斎が歌道に達していることを、かねて聞いていたが、早速の狂歌の妙に感じいった。


 新納忠元の帰順により、ここに太閤秀吉の九州全土の平定は実現した。





         「太閤秀吉の御動座」に向き合う

           
 伊東祐兵・祐審(祐明)の二人

 天正5年の「伊東氏崩れ」によって、入道義祐が新しい縁戚の豊後大友氏を頼って亡命のとき、伊東祐兵は、父義祐一行と生死をともにし、一方従兄弟の加賀守弟・伊東右衛門佐(大炊介)は、多くの家臣団と共に古くからの縁戚でもある敵国島津氏に降伏し島津家臣となった。そして、二人はそれぞれのイバラの道に将来伊東家再興の大きな望みを抱き仕官して10年後の天正15年。祐兵は、秀吉軍の先鋒隊・案内者となって日向に帰還し飫肥奪還を実現。他方、右衛門佐(祐明・大炊介)は、太閤秀吉着陣を前に薩摩の陣営にあって島津軍の副将であった。薩摩泰平寺においてすでに島津義久が降伏し、義弘も秀吉のもとに出頭して大勢は和平に向け動く中、副将の一人大口城の新納忠元は、太閤秀吉からの使者・島津義久の使者双方の説得をも拒絶し続け、頑として降伏に応じなかった。度重なる秀吉・島津義久双方からの説得は失敗に終わり、島津家存亡の危機切迫の中、最後に「義弘の使者」として伊東右衛門佐が登場。忠元が最も信頼を寄せていた右衛門佐の心迫る説得と最後の降伏勧告によって遂に忠元を下城させた、との大軍功が「新納忠元伝」に特筆されている(大口市史および本藩人物誌)。
 この一事をもっても判るように伊東家と新納家の特別な関係、殊に右衛門佐・忠元の両者は、際だった数々の武勇伝と共に相肝照らす知友・盟友でもあったのである。

 またこの九州征伐の戦場には、都於郡の日向伊東家没落の別離に始まって10年後、太閤秀吉を挟んで敵対する両陣営にあって、共に伊東家再興を期して一方は秀吉家臣、他方は島津家臣となって左右の道に分かれた伊東祐兵と伊東右衛門佐両雄の歴史的な出会いと活躍があった。
 永い伊東家の歴史の中でも忘れられないこの日本史上の大きな事件は、武家社会の宿命とは言え人の世の運命の不思議さとそのドラマを鮮烈に感じさせる風景であった。








       

         




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