<墓所と墓塔 その4>

<高野山奥の院>~<伊東塔の謎>~<マンショの贈物>



<高野山奥の院>飫肥藩 伊東家墓所






飫肥藩・歴代藩主伊東家の墓所・五輪塔
<和歌山県>



<写真:戦国島津女系図より転載許可済>

「飫肥藩・伊東家墓所」への行き方:
上記サイトの「関西の島津氏史跡」~「高野山と島津」~「飫肥藩・伊東家墓所」



           <高野山奥の院>飫肥藩 伊東家墓所

 
日向飫肥藩・伊東氏の藩主9代の五輪塔。飫肥藩は初代伊東祐兵、2代祐慶、3代祐久、4代祐由、5代祐実、以降明治維新で知事となった第14代祐帰まで続いた。写真には手前の2基に5代祐実、6代祐永の銘が見える。この伊東家の五輪塔は、高野山・奥の院にふさわしい、謙虚な姿に見えて高さ2m強の本格的な堂々たる五輪塔である。
 この写真のリンク先「戦国島津女系図」(高野山・伊東家墓所)には詳細な解説があるので是非ご覧ください。

 日向伊東氏は、鎌倉時代はじめ、先祖工藤祐経が源頼朝の側近で且つ重臣であったことから日向の地頭職ほか全国に28ヶ所を給付され、はじめその庶子が代官として経営に当たり、南北朝期に至っては足利尊氏の御家人となって源氏として共に戦い、室町幕府以降は、伊東本家が日向・都於郡に本城を築城して伊豆国から移り住んだ。 従って、平安時代後期から南北朝期までの先祖の墓塔は、伊豆・伊東市にある菩提寺の最誓寺にあり10基の五輪塔がそれである。

 一方、日向伊東氏となってからの墓塔は、伊豆時代の先祖の墓塔文化の流れを引いて日向の諸所に多くの五輪塔が見られるが、その中でも注目されるのは、都於郡5代城主・伊東祐尭以降の伊東家当主(国主)に見られる「伊東塔」と呼ばれている特異な形の五輪塔である。
 しかし、この高野山・奥の院に供養された五輪塔は、日向におけるそのような変容は見られず、まったく伝統的な形態である。
 伊東氏が、何故このような「伝統と革新」の二つの形態の五輪塔を用いるようになったのか今のところ謎である。




伊東塔の謎<五輪塔の変容>


飫肥藩時代・伊東塔



2代藩主祐慶・4代祐由・7代祐隆


都於郡時代・伊東塔



都於郡城 8代当主祐充

 


伊東塔の刻(地・水・火・風・空)




「伊東塔」--第18代義賢公




5段目<空>
義祐の室「御東」




4段目<風> 
祐兵の娘「お仙」




3段目<火>
祐兵の娘「お仙」




2段目<水>
祐兵の娘「お仙」





最下段<地>
祐兵の娘「お仙」




伊東塔の様式と謎


 <出典:史料提供>
「飫肥藩の伊東塔のなぞ」村川勝也著(抜粋掲載)
「みやざき民族」第57号(宮崎県民族学会機関紙)


(1)伊東塔の様式
 日向・飫肥地方には、藩主墓地をはじめかなりの数の立派な墓石があり、「伊東塔」と呼ばれている。仏塔関係の辞書類を調べたが、全国的に知られている仏塔と違っていた。「石が語るふるさと」(宮崎県教職員互助会刊)によると、「伊東塔というのは宝塔の変形で、宝塔の基礎の上軸とその上の首部を一つにまとめて方柱にしたものである。方柱の上部は、笠部・相輪と接続しており宝柱と変わらない。宝塔の上軸が膨らみをもち首部に接するのに対し、まとめて方柱にするという簡略化したもである。伊東氏関係の墓石に多いので伊東塔と呼ばれている。」と解説してある。
 ところが、この伊東塔には、宝珠に「空」、笠部の上部で相輪と笠部の間の露盤にあたる部分に「風」、笠部に「火」、方柱に「水」、基礎の部分に「地」の文字が刻んであるものがあり、「五輪塔」にある地輪、水輪、火輪、風鈴、空輪に相当するようになっている。これは、都於郡、飫肥ともに刻んであるものがある。
 このような事実から、伊東塔は、宝塔と五輪塔とを融合させ更に簡略化したものと思われる。また、相輪部分は輪の数が異なりさまざまであるが、その理由は不明である。なお、この伊東塔は、藩主・当主とその主な親族、家臣のみに使用されている。
(2)伊東塔の分布
 この塔は、伊東氏が支配した西都市、日南市付近に数多くある。
室町時代に伊東氏は、日向の都於郡を根拠地として勢力を伸ばし、一時は宮崎県下一円に四十八城を築いたほどであった。この都於郡にある「伊東塔」の一番新しい第十六代藩主義益の墓石などをみると、全体的な形は飫肥にある伊東塔と同じである。ただ、笠部(火輪)の紋様は、上部に線刻のみで、鹿児島県内にある逆修宝筐印塔の紋様に似ている。
 安土桃山時代から江戸時代には、伊東氏は日南市飫肥を中心に支配していた。飫肥にある伊東塔は、報恩字や長持寺跡などにあり、藩主の墓石をはじめかなりの数に上がる。ただ、例外的に、報恩寺にある歴代藩主の墓石のうち正面にある祐兵以外の2代藩主祐慶以下の六基は、層塔の形をしニ層になったものがある。

(3)伊東塔の謎
 伊東塔の特徴の中で、都於郡の墓石には無くて飫肥の墓石には刻まれている文様がある。今までに見られないハート型の紋様が火輪に相当する笠部に描かれている。
 飫肥時代で一番古い年代の第十七代当主の伊東義賢の墓石(文禄2年 1593)にこのハート紋様がり、その後に続く伊東塔のほとんどに使用されている。
 このハート紋様は日南キリシタン史研究会(会長高崎隆男氏)を中心とした研究家たちによってこれまで深く調査研究され、多くの研究成果が生まれていると言う。
 それによると、この紋様は、「ローマ法王遣欧少年使節の正使」となってヨーロッパに渡り、帰国してキリスト教の宣教師となり、わが国に数々の先進的な知識・文化を広めた伊東マンショの偉大な影響力と大きな恩恵を示しているといわれる。
(以上要部抜粋)

                  

                        伊東塔の様式


五輪塔と宝塔の様式比較







伊東マンショの贈物・ハート紋


 伊東マンショは、天正10年(1582)「ローマ法王・遣欧天正少年使節」の正使となってヨーロッパに渡り、九州の三人のキリシタン大名---大友義鎮、有馬晴信、木村純忠の信心の書簡をローマ法王に奉呈しただけでなく、当時の日本国最高権力者(将軍)織田信長からローマ法王への贈物「安土城屏風絵図」を贈呈するなど、日本国とヨーロッパとの文明間交流の先駆者として歴史に大きな足跡を残した。
 また、帰国して後、マカオの修道院で研修を重ねイエズス会のキリスト教の宣教師、後には司祭となり、わが国でキリスト教の布教につとめ、合わせて数々の先進的な知識・文化を広めて大きな影響力と恩恵をもたらしたといわれる。
 少年使節の活躍のことは、当時のヨーロッパ世界で一大旋風を巻き起こし、1585年までに48種類、その後10年間に90種類もの書物が発刊されたという。出版物で見る限り、かってこれ以上に有名になった日本人はいないと言われ、「日本国と日本人」という日本文明の存在をはじめて世界にアピールし、強く印象付けた事件として歴史上画期的な貢献であった。
 そして、伊東マンショは、少年使節が出発して僅か4ヶ月後に本能寺で暗殺された信長に代わり、帰国を出迎えた禁教の主・太閤秀吉にもたいへん厚遇されまた大いなる親交を保った。
 日南市の郷土史家の調査研究によると、日向伊東氏一族であったマンショによって飫肥藩にもたらされたキリスト教文化・西欧文化の影響は想像以上に大きかったと見え、「マンショの記憶」を偲ばせるこのハート紋は、飫肥藩におけるマンショの大きな恩恵を今日に伝えるシンボルのようにも感じられる。
 他方、平成17年、滋賀県安土町ではわが国において歴史上最高の名城といわれる安土城の史跡復興事業の一環として、「天正日本の親善大使」マンショ」によって、織田信長からローマ法王に贈呈した「安土城屏風絵図」を探すため、プロジェクトを結成し調査団を派遣。ローマ法王に面会し正式に調査をお願いしたところ「わかりました」と快く応諾されたことがマスコミで報道された。(下記の写真参照)





現代に甦る親善大使---伊東マンショ





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