<墓所と墓塔 その3>


<伊東氏・島津氏決戦>日向・木崎原古戦場史跡~伊東塚(小林市)


木崎原古戦場




<木崎原古戦場史跡>

 元亀3年(1572)5月4日、当時南九州の覇者・日向伊東氏と鎌倉時代以来のライバル薩摩・島津氏の両者が戦った <木崎原合戦>。この戦いは、もともと伊東軍による比較的「小さな奇襲作戦」であったが、入道義祐のスキ(慢心と油断)によって伊東軍自体に信じられない事態が生じ、島津義弘が「思いがけない大勝利」を得てこれが伊東氏没落の始まりとなった。






<六地蔵塔:戦死者供養>


        島津義弘と伊東新次郎

木崎原合戦の終盤---大将の一人・伊東新次郎(祐信)が敵将島津義弘 に槍で真っ向勝負して突きかかり、槍先の高い義弘は絶対絶命となった。しかし、咄嗟に薩軍の一人がその乗馬の膝を打ち前のめりに地面に着かせたため、義弘の姿勢は下がり新次郎の槍は空しくかわされ、次ぎの瞬間義弘の槍は新次郎の下脇を突き上げてその首級を挙げた。
 この地は、槍の名手新次郎の武勇と愛馬に助けられた義弘の武運の強さが語り草となった史跡である。義弘を救命したその愛馬は、後に「膝突栗毛」と呼ばれ大切にされた。後年この槍合わせの場所に島津義弘によって両軍の戦死者を供養する六地蔵塔が建てられた。 

 





                       伊東塚由来

 伊東塚は、小林市大字真方字上馬場にある。伊東氏と島津氏双方の栄枯盛衰、天下分け目の戦いとなった「木崎原合戦」---この戦いにおいて討死した伊東軍5百余名のうち、大将加賀守など主だった将士2百余名が真方因幡塚に埋葬され、これが後に伊東塚と呼ばれるようになったものである。中央には、文化14年に小林地頭であった市田長門守・源義宣建立の碑がありこの墓の由来を記してある。この石碑には「後の今を視る、今の昔を視るにひとし云々」と名句を彫り広く後世に伝えた。ここには、伊東加賀守、伊東又ニ郎、同新二郎稲津又三郎、上別府宮内少将、米良筑後守、野村四郎左衛門などの墓塔がある。墓塔の中央には、ひときわ大きな「五輪塔「があり、その「地」輪には「伊東加賀守殿・祐安」と大きく銘が刻れている。
 建立したのは五代勝左衛門とあるが、五代勝左衛門は木崎原合戦を戦った薩軍の大将の一人で島津重臣である。おそらく事柄の性格上、実の創建者は先輩の敵将加賀守と知己でもあった島津義弘と想われる。また、五代勝左衛門も伊東氏とも特別な関係があったのであろう。

 なお、この祐安の墓塔のフォルムは、伊豆・伊東市にある伊東氏先祖累代墓所にある10基の五輪塔の墓型が伝承されており注目される。(伊東塚は宮崎県指定史跡 昭和9年4月17日)






 「伊東塚宮崎県指定史跡







大将:伊東加賀守祐安の墓(中央・五輪塔)






銘「伊東加賀守殿・祐安」 五輪塔「地」