<墓所と墓塔 その2>


< 伊東氏 >
「日向・都於郡本城」大安寺墓所~「日南・飫肥城」報恩寺墓所




都於郡城 史跡図




飫肥城 案内図
(Photo Miyazaki)




伊東マンショ子孫(故)伊東武正ご夫妻
 と日南キリシタン史研究会ご一行
    




<木崎原古戦場史跡・えびの市 2002.7.29>
参拝記念写真(中央筆者、右隣妹良子

<邂逅>「伊東マンショ日南キリシタン史研究会」


伊東家累代先祖・大安寺跡墓所





伊東氏歴代城主と一族の墓地<伊東塔>





第5代 伊東祐尭 五輪塔(伊東塔)




           都於郡城 「大安寺」跡墓所の由来

 都於郡城は、初代城主伊東祐持から第5代祐尭、第6代祐国、第7代尹祐、第10代義祐、第11代義益、第12代義賢まで続いた日向伊東氏の本城で、当時日向国全土にこの城を中心に綺羅星の48城があったという。また、大安寺は初め「総昌院」と呼ばれ都於郡城主5代伊東祐尭の菩提寺であった。しかし、戦国末期突如島津氏が侵攻し、占領後はこの寺を島津忠将の寺にしていた。一帯は伊東家主従の「伊東塔」と呼ばれる独特の形をした五輪塔が数多く林立している。 西都市は、昭和54年荒れ果てていた伊東家墓地を改修整備した結果、歴代伊東家当主や重臣の墓が明らかになったがまだ不明者も多いと言う。
 この「伊東塔」は、「地・水・火・風・空」の「水輪」が丸くないこと、「風輪」は数段の長い首輪状であるなど当主・城主の遺徳を称えたと思われる堂々として珍しい五輪塔である。
ただその形態の由来について詳細は判っていないと言う。





飫肥藩伊東家菩提寺「報恩寺跡」墓所





飫肥藩歴代藩主の墓(五輪塔)






飫肥藩歴代藩主の正室(奥方)等の五輪塔  
祐兵公室松寿院・祐慶公室良昌院はじめ13基






藩主墓塔群の周囲にある伊東一族主従の墓塔




           菩提寺・報恩寺跡墓所由来

 伊東氏が飫肥に封ぜられて、酒谷川を渡った飫肥城西側の地に報恩寺を建て「報恩寺殿祐兵」の霊寺としたことにより、伊東氏累代の墓所となった。飫肥城北側にある長持寺、東側にある大龍寺跡墓地・安国寺跡墓地と共に飫肥藩三大寺の一つである。明治5年廃仏毀釈のため廃止され現在の「五百祀神社」社地となった。

 墓地には初代伊東祐兵公~第14代祐帰公の墓塔その両側には、一方に藩主の正室の墓塔(下写真)他方に祐兵公母(雪庭妙大姉)と娘(壽光院)のほかあのローマ法王遣欧少年使節正使伊東マンショ(霞屋妙春禅定尼・偽装墓)とそのマンショ母(町の上)の墓も寄添うようにり並んでいる。
 中央の藩主墓塔群の周囲には、祐国公(祐兵公曽祖父)、伊東勝左衛門(マンショ弟)など伊東家一族主従の無数の墓塔が一帯に広がっている。
そして、訪れる人に飫肥・伊東氏の栄華と共に、鮮烈であった伊豆時代以降の工藤伊東氏の遥かな千年の歴史を語りかけている。






五百祀神社



<提供:Photo Miyazaki 五百祀神社(いおし神社)>



           五百祀神社由来---日向伊東氏累代の先祖 遷座

 飫肥楠原字寺の報恩字跡の脇にある郷社で、伊東家祖先累代の霊を祀る神社である。明治4年弟13代藩主伊東祐相が、東京に移ってから飫肥の領民が旧君累世の遺徳を永く伝えるため、資金を寄せて伊東氏の霊地であるこの報恩寺跡に一社を創建し、古くは板敷村中島田にあった伊東氏八幡社の霊を遷座して歳時参拝所としたもの。社号の五百は、先祖の工藤祐経六世の伊東祐持が日向に下向し、都於郡に本城を築城してから535年を経過しており、その数に因んだものと言う。
 この霊地一帯は、「伊東塔」と称される五輪塔が林立する墓地の中に、キリシタン・伊東マンショの母「町の上」からのたっての願いによって、「偽装されたマンショの墓」(伊東マンショ研究会高崎隆男氏)といわれる墓塔があり、その入口東側には伊東氏歴代の先祖霊を祭った八幡社が併設されていた。飫肥城に神仏混交に加えて、キリスト教文化の伝播をも匂わせる言わば「三教の佇む日南」の風景であった。(参考:山之城民平著「近世飫肥史稿、日南キリシタン史研究会「飫肥藩キリシタン遺物第一編」)