<墓所と墓塔 その1>


<源平合戦の舞台>伊豆~<曽我物語>箱根墓所



伊東家先祖の墓所・最誓寺





伊東家菩提寺・最誓寺(伊東市)





伊東家墓碑由緒書





伊東家累代先祖墓塔 五輪塔10基




 平安時代後期~南北朝期の伊東家先祖の墓所。五輪塔10基。駿河守であった藤原維職が京から伊豆国押領使となって伊豆国・狩野城へ移住。その子宮藤(工藤)大夫を称した狩野(工藤)家継は狩野から伊東へ進出し、祐継~ 祐経~祐時~祐光~貞祐~祐持と続き伊東の歴代地頭であった。この墓所は、南北朝期に足利尊氏に従い日向国に移住した伊東家当主伊東祐持以前の先祖の墓である。
「五輪塔」の発明と普及は空海に始まると言う。藤原氏と空海、伊豆国と空海の接点は広く、鎌倉時代に至って、祐経三男の祐廉(祐時弟)は、源頼朝の子・鎌倉右大臣源実朝が逝去し高野山に葬送の時、実朝を供養するため出家し高野聖となって「日林寺」の住職になったことが「伊東氏大系図」に見える。祐廉は「伊東八郎入道恒門」とも呼ばれた。
伊豆国・伊東家の五輪塔は、貴族豪族の墓所として平安時代に普及しはじめた五輪塔の歴史の中で最も古い時期の墓塔。
 この伊東家先祖の墓は、もともと現在の最誓寺から約500メートル離れた所の伊東家菩提寺東光寺にあったが、江戸末期に廃寺になり近くの東林寺に合併された際、特別に現在の最誓寺に移されたものという。(伊東市教育委員会 市指定文化財)


伊東家菩提寺・東林寺





伊東祐親開基・祐泰菩提寺・「東林寺山門」






伊東祐親追悼墓・五輪塔
<鎌倉時代初期・物見塚公園>



 伊東家の菩提寺である東林寺は、伊東祐親が建立したと言われ、山門横小道を登って左奥に、 祐親の長男で曽我兄弟の父親である伊東三郎祐泰の墓・五輪塔がある。 祐親と祐経は従兄弟同士で祐経妻万劫は祐親の娘、 祐親は祐経の後見人で舅であったが、伊東家の領地を巡る本家争いで、 先祖から伊東本家を相続した当主工藤祐経の領地を 祐親が横領し、京の平家の検非違使庁での裁判で争ったが円満な解決に至らなかった。更に最悪にも舅の祐親が祐経から愛妻万劫を取り上げたことから、止む無く祐経は祐親の討伐に動いた。ある時 祐経の家臣の放った矢が誤って祐親息祐泰に当たり死亡した。この墓地には、父祐泰と後に曽我を名乗った二人の子十郎祐成、五郎時致の慰霊碑(首塚)がある。いずれも五輪塔である。
 また、東林堂の左奥には伊東家を供養する部屋があり、伊東祐親の木像、頼朝と八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像のほか、伊東における伊東家初代先祖狩野祐隆(工藤家継)、その孫の祐親、長男河津三郎祐泰とその子曽我兄弟。併せて曽我兄弟に暗殺された側の、本来の伊東当主(領主)であった工藤祐経のそれぞれ位牌がまつられている。
 ここは、今日まで日本文芸の最高傑作として歴史に華やいだ、いわゆる「曽我物語」当事者一族の慰霊の寺でもある。



工藤祐経の墓(箱根) 





神社の祠に納められ、祠と鳥居の間の両脇に五輪塔の灯篭が配置されている。音止めの滝の東側で工藤祐経の陣所跡と言われるところ神社と五輪塔の神仏混交(富士宮市・上井出)





実相寺山門

工藤祐経の邸宅跡に再建された実相寺



         工藤祐経の墓の由来

 工藤祐経が曽我兄弟に仇討ちを受けたのは、将軍源頼朝が多数の御家人を参集して、建久4年(1193)5月8日から6月7日にかけて富士山の裾野で行われた巻き狩り(大軍事演習)の野営中、5月28日降りしきる雨の日の深夜のことであった。
 工藤祐経は陣所で就寝中、備前国・吉備津宮の神官王藤内と共に殺害された。王藤内は、源平合戦で平家に味方したため頼朝に罰せられ鎌倉に来て数年たっていたが、当時、幕府を開いた頼朝側近の中で一番の実力者であった工藤祐経に助命を頼んだところ頼朝を首尾良く説得し赦免が得られた。吉備に帰る途中退き返して、是非とも祐経のご恩に対する感謝の気持ちを伝えたいと祐経を訪ねて来て陣中見舞いし、旧交を交歓し白拍子を配した酒宴のあと就寝に耽っていたのであった。工藤祐経の墓は、その夜の祐経の陣所跡に建てられていると言う。
 工藤氏の家紋は、「庵木瓜紋」でこれは「神社の藤原氏」を意味し、「宮藤氏」とも「工藤氏」とも書き表していたと言う。そのような背景から、祐経の墓は、「祠と鳥居」の神社の神式でまつっているが、同時に先祖伝来の「五輪塔」の灯篭をも配して神仏混交の組み合わせである。ただし、この墓所は暗殺された霊地の追悼墓と考えられる。 祐経は、伊東宗家で且つ頼朝政権の最高実力者であったので、当然本格的に埋葬されたと推察され、伊豆・伊東家先祖累代の墓にある五輪塔の一つが祐経の墓塔と考えられる。

       工藤祐経の邸宅跡<実相寺>

 また、鎌倉の実相寺は、工藤祐経の屋敷跡と言われる。当初、祐経の娘の子で、後に法難によって伊豆国に流された日蓮上人の弟子となった日昭が、その屋敷跡に法華堂を建てたのが始まりであった。弘安7年(1284)に法華寺となり、その後伊豆玉沢(三島市)に移設された。次いで、元和7年(1621)日潤によて再建されたのが現在の実相寺で、この実相寺も明治初頭、火事により焼失し現在の本堂はその後に再建されたものと言う。





曽我兄弟の墓(箱根・精進池)




曽我兄弟と虎御前の供養塔(五輪塔)。虎御前は十郎の恋人で絶世の美女と伝えられ、十郎の死後尼僧となって兄弟を供養した。また、曽我兄弟の供養塔は、霊地の曽我八幡宮付近にも五輪塔がある。

引用:Area知足寺 曽我兄弟の墓
http://www.j-area2.com/area/hakone/sekitougun.html



 

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